1人でも多くの人に読んでほしい…文さんの体験
夏休み真っただ中ですね。花火大会は、夏の思い出を彩るもののひとつ。我が家の大学生も、浴衣を着て楽しみに出かけていきます。
そんな楽しい花火大会を、複雑な思いで見ていた人がいます。山田文(ふみ)さん、89歳です。新潟県長岡市の『ながおか市政だより 平成29年8月号』は、長岡花火復活70年を前に、文さんの体験を通して、長岡空襲を振り返る記事で始まります。
花火大会が復活したのは、長岡空襲からわずか2年後の昭和22年。しかし空襲によって家を焼かれ、病院に住み込んで昼夜を問わず働いていた文さんは、花火を見ようとも思わなかったといいます。それだけ生きるのに必死だった戦後。ようやく花火を見る余裕ができたのは、それから20年近くたったころでした。それでも「花火が上がるときのヒューッという音が、焼夷弾の落ちる音に聞こえることが今でもあります」と文さん。
私の母は、今年84歳になりましたが、いまだに花火が苦手です。文さんと同じように「焼夷弾」の音に聞こえるのだと、その昔、言っていたことがあります。私は母のその言葉を聞いたとき、戦争というものが残す、決して消えない傷を、まざまざと見せつけられたような気がしました。
文さんは、それでもこういいます。「長岡花火に込められた慰霊と平和への願いが広がっているのはとてもうれしい」「『白菊』の花火は戦災で亡くなられた方をしのぶ大切な機会です。…これでみんなが少しでも、亡くなった人をしのんでくれるんじゃないかとも思います」。
戦後70年を過ぎ、こうした経験を語れる人も少なくなってきました。そして子どもたちを見てみると、学校で平和について学び、考える機会も、私の世代より格段に減っています。過去の戦争を知ることは、なにも自分たちの歴史を貶めるものではありません。過去の戦争は、そこから学び、考え、よりよい未来に活かす糧とするべきなのです。
「長岡は戦場になったんです。兵隊が行ったところだけでなく、私たちも戦場の中にいたんだと思いました」。文さんの重い言葉です。戦争は始めるのは簡単だが、やめるのは難しいとは、よく言われる言葉ですが、戦場に「兵隊が行った」と思っていたら、いつのまにか私たちの暮らしの中に戦場がやってくる…。 約70年前長岡で起きたことを、花火を見ながら、私たちは追体験し、未来への糧とすべきなのかもしれません。
語っていただいた文さん、広報紙に掲載してくださった職員のみなさん、そして全国どこにいてもこの記事を読むことのできる、このマイ広報紙のシステムに、深く感謝します。ひとりでも多くの人に読んでいただきたい、心にささる記事でした。