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常陸大宮市史編さんだより Vol.51

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茨城県常陸大宮市

■佐竹東家(さたけひがしけ)の檜沢・高部地域支配
佐々木倫朗氏
古代・中世史部会専門調査員(大正大学文学部教授)

戦国時代の常陸大宮市檜沢・高部地域を佐竹氏の東家が支配していました。東家は、佐竹義舜(よしきよ)の弟である政義(まさよし)から始まり、政義の子義堅(よしかた)や義堅の子義喬(よしたか)に引き継がれ、義喬から弟の義久(よしひさ)が継承して、佐竹宗家を支えた家です。天正18年(1590)に義久が、佐竹氏の当主義宣(よしのぶ)から鹿島へ領地を与えられた時も、「本知行」であることを理由に支配を継続して認められていました。檜沢と高部は、東家にとって本領であると考えられていたのです。このように、東家と檜沢・高部地域の結びつきは深いものがあったと思われますが、東家の当主は、義久が佐竹氏の南奥(現在の福島県)進出に活躍したように多忙であり、現地の支配に直接的に関わることは難しかったと考えられます。
そのような東家の支配を支えた家臣として、大窪伊賀守秀光(おおくぼいがのかみひでみつ)があげられます。大窪氏は、本領を日立市大久保周辺とする東家の家臣でした。秀光は、義久の南奥進出を支えて活動し、天正6年(1578)7月には、大山義種・和田昭為・大縄義辰・小野崎隆元・小貫頼久と一緒に、岩城氏の一族船尾隆直と昭直に彼らの身柄を保証する文書を発給しており、大山らの宗家重臣と並ぶほどの地位を持っていることがわかります。このため、秀光は、宗家の直臣としての家格を保持していたと考えることができます。
秀光は、そのような南奥における活動ばかりでなく、檜沢や高部の支配も担当していたようで、義久の兄義喬からは、檜沢の支配に関して秀光一人に任せる意向を示されています。また、義喬からは檜沢ばかりでなく、東家の家中全体のことを一任する意向を示す史料も残されており、その信頼の厚さを窺うことができます。
東家の重臣としては他に国安氏もあげられますが、佐竹東家の檜沢・高部地域の支配は、大窪秀光や国安氏のような他地域を本領とする東家家臣を中心に行われ、これに高部氏等の地域に根ざした家臣が組み込まれていきました。

問い合わせ:文化スポーツ課 文化・スポーツグループ
【電話】52-1111(内線344)

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