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明治維新、その先へ

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

水戸が〝天下の魁〟と呼ばれたのには理由がある ~過去を振り返り、未来を考える~

■其の四 加倉井砂山と日新塾
近世の水戸は「学問の府」であり、学業が非常に盛んな地域でした。多くの学者が私塾などを開きましたが、その中でも代表的なものが日新塾です。

◇在野の学者、加倉井砂山
日新塾は、かつて成沢村(現水戸市成沢町)にあった私塾で、その名は中国古典の『大学』にある「苟(まこと)に日に新に、日日に新たに、又日に新たなり」によると言われています。主宰したのは、加倉井砂山(雍(やすし))です。
加倉井家は代々庄屋を務めた豪農で、水戸藩の郷士でもありました。砂山が父の運営していた私塾を受継いだのは文政7(1824)年頃。その後、広く門戸を開き、この塾を日新塾として発展させ、安政2(1855)年に砂山が51歳で没するまで、千名を超える塾生がここで学んだと言われています。城下から離れた場所に多くの門人が集まったことからは、砂山の人間的な魅力と水戸の士民の学びへの高い意識がうかがわれます。
砂山は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭とも交流がありました。斉昭が日新塾を訪れることもあれば、砂山が偕楽園での詩会に招かれ、多くの文人の中で砂山の詩が一番優れていると、斉昭から褒めたたえられたこともありました。

◇多彩な教科と門人
日新塾では、歴史や数学、医学、剣術など、多彩な教科を学ぶことができました。これらを砂山が一人で教えていたわけでなく、砂山は塾生に自主的に学ばせ、その中で生じた疑問の解決策を授けたり、共に考えたりしたと言われています。また、塾生同士の討論会や輪講なども行われていました。
このように、自主性を重んじた日新塾からは、香川敬三(枢密顧問官や皇后宮大夫等を歴任)や川崎八右衛門(川崎銀行創始者)など、後世に名を残す人物が巣立ちました。

◇近世日本の教育遺産群に
砂山の死後、日新塾の建物は明治10(1877)年に焼失してしまいました。その後再建された建物も平成16年(2004)年に取り壊されました。しかし、平成27(2015)年4月、文化庁は日新塾跡や旧弘道館などを含む教育遺産から構成される「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」を日本遺産として認定。幅広い層が高度な教育を受けた近世日本において、藩校だけではなく、私塾などが果たした役割が大きく評価されたのです。

※「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」…備前市(岡山県)の旧閑しずたに谷学校や足利市(栃木県)の足利学校跡、日田市(大分県)の咸宜園(かんぎえん)跡などとともに、水戸市内では日新塾跡のほか、旧弘道館、常磐公園(偕楽園)、旧水戸彰考館跡、大日本史が構成文化財になっています。

問合せ:日新塾精神顕揚会(川崎定徳株式会社内、【電話】03・3271・1633)または市政策企画課(【電話】350・1580)

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