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波佐見の偉人 第4回

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長崎県波佐見町

◆黒板 勝美(くろいた かつみ)

黒板勝美は、明治7年(1874)9月3日、旧大村藩士・黒板要平の長男として田ノ頭郷(本籍田ノ頭郷435番地)で生まれました。
黒板家の先祖は田ノ頭郷の戦国武将・黒板越中守勝信(えっちゅうのかみかつのぶ)で大村領主・大村純忠の家臣となり、やがて江戸時代に黒板家は喜左衛門系と新左衛門系の2家に分かれ、田ノ頭郷から大村玖島城下へ移住し、大村藩士の家系に列しました。勝美の先祖は喜左衛門系で城下の池田分(大村市諏訪)に居住しても上波佐見村と下波佐見村に私領(私有地)を有していました。
勝美の祖父は池田分に住み大村藩主の側近を務めていましたが、明治時代初期の廃藩後、私有地がある田ノ頭郷に移り住みました。父・黒板要平は、明治4年(1871)陸軍・熊本鎮台に伍長心得として入隊し、軍曹に昇進した際、父の死で田ノ頭郷に帰りました。後に要平は明治31年(1898)第4代上波佐見村長に就任しました。
勝美は明治23年(1890)私立大村中学校(長崎県立大村高等学校)を卒業し、第五高等学校(熊本大学)に入学しました。当時、同校で英語を教えていたのが『怪談』などを著したギリシャ人の日本研究家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であり、勝美はハーンから英語を学び、その英語力は東京帝国大学(東京大学)進学後に生かされました。
明治26年(1893)第五高等学校卒業後、日本史を研究するため東京帝国大学文科大学国史科に入学し、古文書学を専攻し、明治29年(1896)大学院に進学しました。
その後、経済雑誌社に入り、田口卯吉(たぐちうきち)の下で『国史大系(こくしたいけい)』の校訂に従事しました。今まで日本史を研究する上で必要な史料は個々別々に日本国内各所に残されていましたが、それを集大成し書籍化したのが『国史大系』でした。勝美は専門の古文書学を駆使し、田口の仕事を助けました。田口の没後、昭和4年(1929)からは、『国史大系』の不足を補うため、勝美自身の編集による『新訂増補(しんていぞうほ)国史大系』の刊行を始め、完成後、合計66冊となりました。勝美の偉業は、「くずし字」という一般の人が読めない文字で書かれている古文書など日本史の史料を解読・解釈してみんなが読める活字に直して出版したところにありました。『国史大系』は、現在でも歴史学研究の基本史料となり、国内外の大学等各研究機関をはじめ博物館や図書館等で大いに活用されています。
この間、勝美は明治34年(1901)東京帝国大学史料編纂官、翌年同文科大学講師、明治38年(1905)同助授、史料編纂官を兼務しました。そして学位論文「日本古文書様式論」で東京帝国大学から文学博士の学位を取得し、日本古文書学の体系を確立しました。また、明治41~43年(1908~10)、学術研究のため私費で欧米各国に出張し、大正8年(1919)史料編纂官兼東京帝国大学教授となり、昭和9年(1934)日本古文化研究所を創設し所長となりました。翌年、大学教授を定年退官し名誉教授となりましたが、昭和11年(1936)史跡調査の途中、群馬県高崎市において脳溢血で倒れ、昭和21年(1946)12月21日に73歳で亡くなりました。墓は東京の池上本門寺の墓地にあります。
勝美は古文書の保存に限らず、国宝、史跡名勝天然記念物、重要美術品等、日本の文化財の保存に努め、特に史跡保存の根本方針を定めた功績は大きく、今も文化庁の政策に継承されています。また勝美は当時、世界共通語として注目を集めていたエスペラント語の日本普及に力を入れました。
なお、勝美の弟・黒板傳作(でんさく)は東京月島機械製作所を創立し社長となり、妹の加代は、今里酒造社長・今里友次郎の妻となり、長男・今里久香、四男・今里廣記らの母となりました。

学芸員 盛山 隆行

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