文字サイズ
自治体の皆さまへ

しんしろー家康紀行ー其の四

16/28

愛知県新城市

■武田信玄最期の城攻め〜野田城〜
今からちょうど四五〇年前。日本中が新城を注目していました。甲斐国(今の山梨県)の戦国大名である武田信玄が大軍を率いて三河国を目指していました。一二月に三方原の戦いで家康を撃破し、次の目標を野田城に据えていました。

▽野田城の始まり
鎌倉時代や室町時代の千郷は設楽郡の中心となる地域の一つで千秋氏や富永氏が支配していました。戦国時代になると田峯から来た菅沼家が野田城を築き、東三河を代表する豪族の一つとなっていました。家康の祖父松平清康のころにその家臣となり、地域の安定に努めました。
その後、今川家に仕えたこともありますが、一貫して松平家(徳川家)と行動を共にしました。桶狭間の戦いの後、家康が今川家から独立すると、菅沼家も今川家から離れ、徳川家の家臣として活躍を始めます。
城主である菅沼定盈は家康と同じ歳でした。家康のように人質になることはありませんでしたが、家康同様に父を早く亡くすなど、似たような境遇のなかで育っており、家康にとって信頼すべき家臣である定盈の守る野田城はとても重要なお城でした。

▽野田城を守れ!
年が明けると、信玄は宇利峠を越えて野田城を取り囲みました。その軍勢は二万を越えていました。一方野田城を守る兵はわずか四百人。一瞬にして野田城は踏み潰されてしまうほどの兵力差です。
信玄ははじめ道目記城(今の千郷中学校あたり)に本陣を置き、周辺にあった泉龍院や竹生神社の元宮などを焼き、野田城への攻撃を始めました。
城主をはじめとした籠城兵の士気は盛んで武田軍に対して一歩も引きませんでした。幾度となく城外に積極的に打って出て、武田軍を慌てさせました。その様子を見た信玄は「このような小さな城であるが、定盈は三河で名の知られた武将であり、兵たちはみな決死の覚悟である。力攻めをすれば、我が軍の損害も大きくなる。金堀人足を入れて井戸の水を抜け」と家臣に命じたほどでした。
兵力の差は挽回しがたく、少しずつ武田軍が優勢になってきました。このままでは落城してしまうと考えた定盈は家臣を家康の元に使いに出すことにしました。

果たして、野田城の危機に家康はどう動くのでしょうか?

問合せ:設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
ID:744717632

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒104-0061 東京都中央区銀座3-4-1 大倉別館ビル5階

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU