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伊賀の歴史余話 39

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三重県伊賀市

■本能寺の変と伊賀
〜伊賀衆の再蜂起〜

天正10(1582)年6月2日、天下統一を目前にしていた織田信長は、家臣である明智光秀の謀反によって京都の本能寺に斃(たお)れます。
この歴史的な事件の前年、伊賀国は信長の侵攻を受けていました。この「天正伊賀の乱」と呼ばれる戦いでは、織田軍に対して伊賀国各地で土豪を中心とした伊賀衆が抗戦しますが、あえなく敗退します。国土は灰塵(かいじん)に帰し、多くの悲劇的な伝承が現在に伝えられています。
そのような状況の伊賀国に舞い込んできたのが、本能寺の変の知らせでした。徹底的に殲滅(せんめつ)されたはずの伊賀衆でしたが、これを好機ととらえ再び蜂起します。
蜂起の鎮圧にあたった織田信雄(のぶかつ)の家臣、小川長保(ながやす)が残した覚書には、9月に宮田城(丸柱)、10月に島ヶ原城、11月には雨乞山城(下友田)で伊賀衆が籠城を始めたとあります。小川らは、次々と蜂起する伊賀衆の鎮圧に手を焼きます。
一方、『勢州軍記(せいしゅうぐんき)』などの軍記物は、伊賀における別の蜂起を伝えています。場所は一之宮の富坂に設けられた地形が険しく守りに有利な要害で、小泉伊豆ら近隣の土豪が立て籠もったとあります。なかでも当時73歳の老将、森田浄雲は敵将を組み伏せるなど、その奮戦ぶりが事細かに紹介されています。
この一之宮における蜂起は鎮圧され、浄雲も討死を余儀なくされます。しかし、各所での伊賀衆の抵抗は、天正11年4月に賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破り、次なる天下人への歩みを進めるまで続きました。
賤ケ岳の戦いの翌年、伊賀国を平定した秀吉は、すぐさま島ヶ原城などの破壊を命じます。秀吉の脳裏に、天正伊賀の乱から驚異的な回復を見せた伊賀衆の姿が焼き付いていたのかもしれません。

問合せ:文化財課歴史資料係
【電話・FAX】41-2271

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