■自分のものさし
先日、友人とおしゃべりしていると、「この前、子どもの計算ドリル見てたらな、ふとこんなこと思ってん」と、言いだしました。
「『公園でこどもが20人遊んでいます。女の子は7人です。男の子はなん人でしょう』って問題なんやけどな」
「13人やろ?」
「そう思うやろ?うちもそう思っててん。でもな、もしな、LGBTQの子がその中にいたら『ぼく(私)はどっちにはいるんかな。男と女しかないんかな』『なんでそうなるん』ってならへんかなぁって感じてん」
それを聞いて、私はハッとしました。この問題の正解は13人です。でも、自分の性別に違和感を持つ人にとっては、「ぼく(私)はどうなってるの?」とならないだろうか。意図的ではないにしろ、少数者のことが視野に入れられていないことにならないだろうか。
そう考えた時、学生の頃のこんな光景がよみがえってきました。
アニメ好きの女の子の友人が自分のことを「おれ」と言っていました。私はアニメの影響だと思い「『わたし』やろ」と笑って言いました。
彼女は何も言わずその後も「おれ」と言っていました。彼女から「おれ」の理由を聞いたことはありません。でも、「『わたし』やろ」の一言に彼女の表情はかすかにこわばっていたように感じました。この話題は、後にも先にもこの一回きりでした。もしかしたら、彼女は自分の性に違和感を持っていたのかも知れません。
私は、女の子が自分のことを「わたし」と言うのが「普通」だと思っていました。社会では大多数がそうだからです。でも、大多数がそうだからと言って、そのことがすべての人にとっての「普通」であるとは限りません。
「自分の当たり前のものさしがみんなと同じだと考えていたこと」で、これまで私は、知らず知らずのうちに周りの人を傷つけてきたのではないかと考えました。
たくさんの人に出会うことで、「自分にとっての当たり前という目盛り」ではなく、「いろんな人のいろんな目盛り」に気づける自分になっていきたいと思います。
毎月11日は「人権を確かめ合う日」
ご意見は人権・男女共同参画推進室(【電話】63-7909)へ
<この記事についてアンケートにご協力ください。>