■豊臣秀長と藤堂高吉
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公は「豊臣秀長」です。兄の秀吉が天下を治めるまで大変貢献し、多くの大名や家臣からも信頼され、「秀吉をいさめることができるのは秀長だけ」と言われるほどの人物でした。
名張藤堂家の始祖である藤堂高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として誕生しましたが、この秀長の跡継ぎであった時期があります。当時仙丸と呼ばれていた高吉が4歳から10歳、秀長が43歳から49歳のときでした。
秀吉は織田信長の筆頭家臣である柴田勝家と丹羽長秀に取り入るため、2人から一字ずつもらい「羽柴」と名乗っていました。しかし、本能寺の変で信長が討たれると、秀吉は山崎の合戦で明智光秀を討ち、その後、柴田勝家と対立することに。このとき丹羽長秀を味方につけるため、秀吉は長秀の三男である仙丸を弟秀長の養子に迎えたのです。
「藤堂宮内少輔高吉一代之記」には「秀長卿仙丸を寵愛し給ふこと浅からす」と記されており、秀長は仙丸をかわいがり、大事に育てたと考えられています。秀吉が関白に就いたとき、仙丸は、「従五位下宮内少輔」に任じられ、いずれは秀長の跡を継ぐ予定でした。しかし、秀吉は天下を取った後、血のつながらない仙丸を廃嫡し、甥秀保を秀長の跡継ぎに据えます。秀長は強く抵抗しましたが、家臣の仲裁もあり秀吉に従いました。
そうして仙丸は、当時、跡継ぎがいなかった家臣の藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉となります。涙を呑んだ秀長は、高吉に1万石を与え送り出しました。
高吉が豊臣家を去り、藤堂家に入ってから3年後、秀長は病のため亡くなります。よき補佐役を失った秀吉は、その後朝鮮出兵を断行し、高吉も、高虎とともに大陸に渡っています。このとき秀吉からもらったねぎらいの書簡(豊臣秀吉朱印状)は、名張藤堂家邸の屋敷とともに一般公開されています。
編集発行:名張市郷土資料館(教育委員会文化生涯学習室)
〒518-0737 名張市安部田2270番地 名張錦生ふるさとパーク内【電話】64-7890
<この記事についてアンケートにご協力ください。>