関ヶ原の戦いの東軍勝利と江戸幕府の開府を経て、慶長13(1608)年、藤堂高虎は伊予今治から伊賀・伊勢へと転封(てんぽう)となり、22万3,950石の大名として津城に入りました。近江国に生まれ、若い頃から武勇に優れた高虎は、数々の主君に仕えた後に秀吉・家康という天下人の下で功績を挙げました。
外様大名ながら、大坂の豊臣方を抑える目的で要衝の地である伊賀・伊勢に配されたことから、将軍家康の信望の厚さがうかがえます。
高虎は入府から3年後の慶長16(1611)年に、自らの居城となる津城の大改修にようやく着手しています。これは「天下普請(ふしん)」と呼ばれる幕府の命による全国の城郭修理の指揮を執ることが多く、津城の改修が後回しになったためです。
お城公園となっている現在の津城跡を訪ねると、高虎による大改修の痕跡を確認できます。
まず、津城の顔となっているのが本丸北側の石垣です。ここには、北東隅の丑寅櫓(うしとらやぐら)と北西隅の戌亥(いぬい)櫓、そして両櫓をつなぐ多門櫓が建てられました。これらは高虎により新設されたもので、石垣の直線的な稜線が彼の築城術の特徴を示しており、その姿は明治初期に撮影された写真でも確認できます。
また、本丸南側には古い石垣の隅に石垣を継ぎ足したような痕跡を見ることができます。ここから東側に約30mを拡張したことがはっきりと確認できる場所で、本丸は東西・南北とも一辺が100mを越えるものとなりました。
高虎による大改修は本丸だけに限りません。本丸を囲む内堀は広大で、その最大幅は100m程度ありました。寛永期(1624年~1644年)に描かれた津城下絵図を見ると、本丸を中心にして内堀と外堀が「回」字状に整備され、その外側には城下町が形成されています。
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