文字サイズ
自治体の皆さまへ

歩いて発見。津の魅力 歴史散歩~津城かわら版〔208〕

11/23

三重県津市

■津城かわら版(4) 津城下町・宿場町の形成
津城の大改修と一体となって行われた町の整備は、城下町としての津の町の基盤を整えるとともに、伊勢街道の宿場町としてのにぎわいを創出するものでした。
城下町は、北を安濃川、南を岩田川に挟まれ、東側には新たに堀川を開削して区画し、その東に寺町をつくり、城下の三方向の防御を固めました。寛永期の城下絵図を見ると、朱色で示された武家屋敷が城を中心として西側に広がり、東側には町家が展開しています。城から北東方向(鬼門の方角)には津城下を守るように津観音があり、藤堂高虎が寄進した銅灯籠が今も境内に残ります。また、岩田橋の南には、高虎に随従して伊予(愛媛県)から来た人々の町を新たにつくりました。この「伊豫町(いよまち)」や「久留島(くるしま)(来島)」の名は、今もバス停や自治会の名として残るなど、伊予とのつながりを感じさせます。
そして、それまで海沿いを通っていた伊勢街道を城下を通す形にしたことにより、津の町は宿場町としても機能するようになります。その道筋を、江戸橋から部田(へた)(現在の栄町周辺)を通って塔世川(安濃川)を渡り、城下から岩田橋を渡って東南に向かうルートに変更することで参宮客の滞在を図りました。大規模な市街地形成と城下への移転を促進するため、津藩は、総額2,000両相当(現在の約2億円)の移転料を町民に与え、新たなまちづくりを図ったのでした。
高虎入府後の城郭整備に合わせて開始された城下町整備は、約90年にわたって範囲を拡大して行われ、3代藩主藤堂高久の治世下で完成に至ります。後の享保期(1716~1736年)の城下絵図には、八町や藤枝、新東町も描かれており、当初より城下が拡大したことを如実に示しています。
城下町とともに宿場町として発展した津の中心市街地は、高虎が整備を図った区画を基礎としており、明治期以降に堀の大部分が埋め立てられて変貌しましたが、町の各所にかつての名残が感じられます。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

次回の「津城かわら版(広報津2月16日号)」
絵図に見る城下の変遷

「津城跡」に関する市民の皆さんのご意見を受け付けています。詳しくは津市ホームページをご覧ください。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU