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歩いて発見。津の魅力 歴史散歩~津城かわら版〔202〕

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三重県津市

毎月、津市の歴史に関するトピックスをお届けしている「歴史散歩」では、今回から津城(丸之内)の歴史や変遷、その後お城公園として整備されるに至った経過など、さまざまな視点から関連記事を「津城かわら版」として隔月で掲載します。その初回となる今回は津城の起源をたどります。
私たち津市民にとって津城は「初代津藩主 藤堂高虎の城」というイメージが強いのではないでしょうか。
江戸時代の慶長13(1608)年に伊予今治から伊賀・伊勢二国の大名として津に入った高虎は、同16(1611)年から津城の大改修を行い、本格的な近世城郭と城下町・宿場町として津の町の基礎を築きました。
では、高虎による大改修以前の安濃津(あのつ)城と呼ばれた津城はどのような城だったのでしょうか。一説には永禄年間(1558~1570年)にこの地を治めた長野氏一族の細野氏が築いた小規模な城が起源とされますが、明確な記録は残っていません。
その後、織田信長の伊勢進攻によって津周辺が統治下となり、すでに伊勢上野城(河芸町上野)に居を構えていた信長の弟である信包(のぶかね)が、当地支配の拠点として新たに築いた城が安濃津城で、天正8(1580)年に完成したといわれます。この時の縄張り(設計図)を直接示すものはありませんが、江戸時代に描かれた絵図「天正期安濃津城図」でその様子がうかがえます。
安濃川下流域の低湿地である地形を巧みに利用し、城の区画を堀で囲う基本的な縄張りはこの頃から見られます。ただ、後の高虎による大改修の縄張りと異なる点として、城の西側には入口がなく、東を正面として西側に天守や屋敷をはじめとする主な建物が描かれています。天守から堀を隔てた場所に「織田民部殿屋鋪(おだみんぶどのやしき)」との表記があり、これが城主信包の屋敷と考えられます。城の中心部である天守・小天守との位置関係から、この屋敷は現在の市本庁舎が建つあたりにあったと考えられます。
細野氏が築いた城を起源とし、信包の改修でその規模を拡大した津城は、その後、関ヶ原の戦いで東軍にくみした富田氏の居城となり、続いて高虎の大改修により城としての完成へ向かいます。

「津城跡」に関する市民の皆さんのご意見を受け付けています。詳しくは津市ホームページをご覧ください。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

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