■津城かわら版(10) 廃城後の津城[2] 大正期から現在まで
津城を取り囲む堀のうち、鯔(ぼら)堀(南外堀の一部)や西外堀は大正時代になると埋め立てられ、大正15(1926)年には津裁判所前の内堀も半分が埋め立てられ宅地となりました。
昭和6(1931)年に藤堂家から津市へ土地の寄付があり、その後の市道建設や養正小学校運動場の拡張のために東内堀の一部が埋め立てられます。昭和14年、津城跡は都市計画法による風致地区としての「津城址(し)風致地区」と都市計画公園としての「中央公園」となることが決定し、津城跡の保存と公園化が決まりました。しかし、第二次世界大戦の戦況の悪化により、その後の進展は見られませんでした。
戦時中の空襲で津市の中心市街地の7割が焦土と化し、津城跡周辺の戦後復興は焼け野原からのスタートとなります。昭和25年頃からは南内堀の埋め立てが開始され、広大な規模を誇った内堀は市街地化されます。この工事のためにトロッコ軌道を敷設して安濃川から土砂を搬入したといわれ、ここには昭和35年に旧津警察署が、昭和37年には旧三重県文化会館が建設され、本丸内にあった高山神社も昭和44年に埋立地の一角(現在の位置)に移転しています。
終戦から10年以上経過した昭和33年1月には、藤堂家所有の津城跡部分用地を津市が購入し、2月に津城跡が市史跡に指定されました。8月には戦後復興のシンボルとなる鉄筋コンクリート造の三層模擬櫓(やぐら)が完成します。この櫓は、津工業高校建築科を中心とした建築研究会の設計で、兵庫県の明石城の櫓をモデルとしたといわれます。建設費用は、総工費500万円のうち7割を地元商店街を中心とした市民からの寄付金で賄い、残りを市と県が負担しました。江戸時代にはこの櫓の建つ場所に、こうした三層の建物はありませんでしたが、国道23号からの眺望を考慮してこの場所に建てられました。当時の記念写真からは櫓の竣工(しゅんこう)を祝う関係者と市民の熱意が伝わってきます。
その後、津城跡の史跡指定範囲では櫓の建設にとどまらず、昭和42年から昭和45年にかけて本丸部分が洋風公園に、旧県立図書館移転後の西之丸部分が日本庭園に整備され、名称を「お城公園」として今に至ります。平成17(2005)年3月には津城跡(お城公園の範囲)が県史跡となり、津市の誇る歴史遺産としての価値が高まるとともに、今後の整備方針についての議論も始まっています。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。
次回の「津城かわら版(広報津2月16日号)」
廃城後の津城(3) 津城跡(お城公園)の緑
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