■津城かわら版(6) 江戸時代前期の津城下を見る
今回から3回にわたり、江戸時代前・中・後期の異なる津城下絵図を詳しく見ながら、津城下の変遷の様子をたどっていきます。今回は、江戸時代前期の寛永期(1624年~1644年)に描かれた絵図から見ていきます。
この絵図の時期を示す根拠の一つは、図の右下に描かれている「八幡宮(はちまんぐう)」がこの地に移されたのが寛永9(1632)年であることと、もう一つが内堀東側の上級家臣の屋敷地である二之丸に「藤堂采女(うぬめ)」の名が記されていることです。藤堂采女家は、寛永17(1640)年に城代家老として伊賀上野に移りますので、こうした点からこの絵図が寛永期の津城下を描いたものと判断できます。
津の城下町の礎を築いた高虎の城づくりの特徴の一つに広い堀があります。それは前任の今治城(愛媛県今治市)で既に完成されたものでした。これに加え、北の安濃川と南の岩田川に囲まれた立地で、安濃川には橋も架けられていません。このように津の町は、自然地形も取り入れた守りの固い城下町であったことがよく分かります。ただし、絵図は今の地図のように距離や面積などは正確ではありません。城を中心にどのような施設が配置されているかを模式的に描いており、岩田川はかなり誇張した表現となっています。
城の本丸や西之丸には、その周囲を巡る櫓(やぐら)のほかに建物が見られます。特に、その後に描かれた絵図にはない天守と小天守が本丸南西部の石垣の上に描かれています。この建物がいつ建てられ、いつなくなったかは議論のあるところですが、江戸時代前期の津城の構造を考える上でも貴重な情報を含んでいます。
また、城下町は、武家屋敷を朱色、町家を黄色、寺院を紺色と灰色で色付けして表現しており、その分布がよく分かります。城を中心として西側に武家屋敷を、外堀沿いの参宮街道に沿って町家を、堀川沿いには寺町をそれぞれ配置した計画的な町づくりの様子がうかがえます。
津城下の町割りは、姿を変えながらも現在の市街地に引き継がれており、参宮街道筋の町並みは当時の街路をそのままに残す形で今につながっています。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。
次回の「津城かわら版(広報津6月16日号)」
江戸時代中期の津城下を見る
「津城跡」に関する市民の皆さんのご意見を受け付けています。詳しくは市ホームページをご覧ください。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>