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あなたはどれだけ知ってる? 藤堂高虎(とうどうたかとら) vol.7

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三重県熊野市

■今回は、藤堂高虎の後半生に触れます。
豊臣秀長、秀保と相次いで主人を失くした高虎は、武士の身分を捨て、出家しました。しかし、高虎のこれまでの活躍をよく知る豊臣秀吉が放っておくはずがありません。秀吉の強い説得により、高虎は武士に復帰しました。しかも、出家前の石高2万石から宇和島7万石の大名として迎えられました。
藤堂高虎には「7人の主君を渡り歩いた武将」や「出世のために主君を変える強欲男」という世間の厳しい評価がある反面、「家康の晩年の腹心」や「忠義の武将」と高く評価する意見もあります。
秀吉への出仕も自らの売込みではなく、熱望されたものでした。
豊臣家の忠臣であり続けた高虎ですが、徳川家康と親しくなっていきました。秀吉亡き後は、多くの武将が、豊臣につくか、家康につくかの判断を迫られました。高虎は、「天下を治める人としてふさわしいのは家康」と判断し、家康の家臣となりました。
関ヶ原の合戦では、家康率いる東軍で「白もち三つ」の旗印を掲げ、勇猛果敢に戦い、勝利に貢献しました。その結果、22万石に加増され、高虎は津藩主となりました。
大坂夏の陣でも、幕府方の先鋒として奮戦しましたが、あまりの激しい戦いで多くの家臣を失いました。このことは、更に家康の信頼を深め、加増され、藤堂家の総石高は32万石余りとなりました。
この後、戦国大名・藤堂高虎は、藩主という国家官僚となり、家康と共に泰平の世の礎を築いていくこととなりました。
家康は臨終の際、「天下を揺るがす兵乱が起これば、先ずは藤堂高虎を」の言葉を残しています。家康亡き後も、高虎はその信頼に応えるように黎明期(れいめいき)の幕府を支えていきました。
高虎は、寛永7年(1630)、75歳で波乱に満ちた生涯を終えました。その亡骸は、身体中、傷痕だらけで、右手の薬指と小指はなく、左手の中指は3cmほど短かったと伝わっています。戦乱の世を泰平に導くため、全身全霊で生き抜いた証といえるのではないでしょうか。

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