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あなたはどれだけ知ってる? 藤堂高虎(とうどうたかとら) vol.15

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三重県熊野市

今回は、藤堂高虎の工夫を凝らした城設計についてご紹介します。
和歌山県紀の川市にある粉河(こかわ)城は、高虎が手掛けた城だといわれています。城の遺構はほとんど残っていませんが、郭(くるわ)の配置は、頂上を中心に三方に尾根が延びる地形にあったと考えられており、粉河城の次に築城した赤木城と立地がよく似ています。
高虎は、赤木城の築城の際に粉河城での経験を基に、よく似た地形に郭を配置していき、更に郭の周囲を総石垣造りにしたことで、強固な城として、見る者に威厳を示したのではないでしょうか。
次に7万石の領主として築城した愛媛県の宇和島城は、外郭が五角形になっています。敵には外郭が四角形と思わせることで、一辺が死角になります。死角となった一辺は、敵の攻撃を避けるだけでなく敵への攻撃口にもなり、物資運搬口や城から落ちのびる際の抜け道にもなります。地形を活かし、敵を欺き、かく乱させる狙いを秘めています。実際に、後の江戸幕府の隠密でさえ、その狙いに気づかず四角形として報告していたという記録が残っています。
高虎が20万石の領主として築城した今治城は、瀬戸内海の海水を引き込んだ広大な三重の堀や大きな船が入ることができる、国内屈指の海城でした。
今治城には、築城当時、石積みの技術を活かした高い石垣がありました。さらに、石垣を登り切った先には、敵の攻撃力を低下させるために造られた幅50メートルの広大な堀がありました。敵が弓矢を射ても届かず、火縄銃を撃っても命中率が下がる50メートルの堀は、その距離以上に大きな盾となり、高い石垣と合わせて敵の戦意喪失に一役買ったのではないでしょうか。
高虎の地形を活かした城づくりはその後も続いていきます。
※現存する宇和島城の城郭は、のちの伊達家が築城したものです。

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