■32才のころの話
まちづくり団体(JC)に所属していたころ、「らしさづくり委員会」という、奇妙な名称だけど何をするかがよくわかる委員会の委員長を命ぜられました。その1年前活動で北海道から鹿児島までの11ヶ所を現地調査したこともあり、まちづくりにかかわることができる喜びと初委員長という重責が交錯する1990年でした。
提言というと、報告書にして冊子にまとめるというのが当たり前の時代でしたが、私たちは提言を子どもを含む全ての世代に見てもらいたいと思い、表現方法を工夫しました。その内容を、ネタにいろんな意見が飛び交うようにするために、鳥羽のまちを模型にして提言しようということになりました。
まずは地形づくりのため2mの等高線に沿って2ミリのボードを切り抜き、それを積み重ねます。標高約160mの樋ノ山は80枚のボードを積み上げました。そこに紙粘土を塗り込み、その上にはジオラマの綿状の樹木を載せ、まち中にはブロック状の家並を配しました。もちろん、配置を考えるだけではありません。住んでいるかたには申し訳なく思いつつ山を切り土したり、お堀を復活させたりもしたので、そのメス(のこぎり)を入れるのは心底責任を感じたのを今でも憶えています。そして完成後は当時の水谷市長に提言し、そのまま寄贈。現在の西庁舎2階ロビーに展示されました。
提言では、当時マリンタウン計画が既に進んでいたため佐田浜地区には触れていません。近鉄志摩線が複線化されることで開かずの踏切となり、より海側と市街地側の分断化が増すのではないかという懸念がある時でした。模型ではその分断を逆手にとり、海側の新しいまちと市街地側の歴史的なまちの差別化を際立たせ、その二極をタイムトンネルのような大陸橋でつないではというコンセプトでした。必然的に周遊する動線となるので、今で言うところのウォーカブルなまちづくりを提言していました。
ほかにも、伊勢神宮と宇治浦田の駐車場の間に位置するおはらい町が賑わいの絶妙な位置関係にありますが、水族館や真珠島の吸引力をもってすれば、駐車場は少し離れたところにある方が動線が長くなっていいのでは、などと生意気なことも提言しています。
この提言が34年前。その取り組みを、立場を変えて今年「まちづくり再生元年」としてスタートさせました。市民のみなさんの声をお聞きしますので、よろしくお願いします。
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