■権田小三郎と亀山城天守
北條氏勝の後、亀山城を預かったのは権田 小三郎(ごんだ しょうざぶろう)です。氏勝は、病にかかり息子の繁広に城を譲ったとする史料もありますが、亀山城側の記録には名前を見出せません。
また、北條氏と権田氏が亀山城に入ったことは確かですが、史料では「城代」「丹波国御代官」などと出てきます。なぜ城主と名乗れなかったかについては今後の研究が待たれます。
ところで、権田小三郎は慶長十五年(一六一〇)頃までおよそ五年間在城していました。しかし、亀岡市域に発給文書等が残されておらず、どのような活動をしていたかはわかっていません。
その中で、前回も紹介した『御代記』にある次の記事は注目されます。「権田小三郎の時代に内堀が完成し、慶長十一年(一六〇六)に亀山城天守が建てられた」。つまり、権田小三郎の時代に亀山城の内堀が完成し、天守が建造されたというのです。
亀山城の天守といえば、岡部長盛の時代に実施された天下普請が有名ですが、この記録によれば、権田氏の時代にすでに天守が建造されたことになります。とすれば、岡部長盛の時代には既存の天守に替えて五層天守が建てられたことになりますが、この真偽についても今後検証していく必要があります。
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