■亀山城天守と藤堂高虎
亀山城が五層天守を備える城として改築される際、普請を任されたのが藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
藤堂高虎は、弘治二年(一五五六)に近江国で生まれ、初め浅井氏に仕えたのち、豊臣秀吉の弟秀長、秀保に仕えましたが、関ケ原合戦では徳川家康に与しました。この戦功により、合戦後には伊予国(現在の愛媛県)を与えられ、慶長十三年(一六〇八)には伊賀・伊勢(現在の三重県)へ転封されます。亀山城普請を命じられたのは、ちょうどこの転封に伴い、伊賀へ移ろうとしていた時期でした。
藤堂高虎の事績を記した『高山公実録(こうざんこうじつろく)』によれば、この前年より、高虎は転封先の伊賀上野城の天守を建てるため、今治城天守を解体し、その資材を大坂まで運んでいました。しかし、ちょうどその頃徳川家康から丹波亀山城を普請するようお触れが出ていたので、高虎が家康へ伺ったところ、天守を亀山城に転用するよう命じられた、といいます。
こうして、亀山城天守は慶長十五年(一六一〇)に完成しますが、伊予今治城の資材を使って整備されたものだったといえます。現在、愛媛県今治市に復元されている今治城から、当時の亀山城天守の祖型を伺うことができます。
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