■豊臣五奉行 前田玄以と亀山
小早川秀秋転封後に亀山城主となったのが前田玄以です。
前田玄以は、織田信忠の家臣として活躍し、本能寺の変の後は織田信勝、羽柴秀吉に仕えておもに京都市政を担った人物です。慶長三年(一五九八)、秀吉の晩年に秀頼を補佐する五奉行に任命されたことでも知られています。そのような秀吉政権の中枢を担う人物である玄以に与えられた所領が丹波亀山でした。
前田玄以の頃の亀山城下町を伝える古文書は、聖隣寺と大圓寺に残されています。当時、丹波亀山城のように城主が頻繁に変わる地域では、城主が変わるたびに文書を獲得して、これまで認められていた権利を保障してもらう必要がありました。聖隣寺と大圓寺には、それぞれ玄以の城代である秀以から「亀山において、古世町のうち米二石を寄進します」、「亀山において、荒塚町のうち米二石を寄進します」とする文書が与えられています。これらは、三月号で紹介した小早川秀秋家臣の山口宗長から安堵された「米二石」の追認を求めたものであることは明らかです。
またこれらの文書から、当時城下町とは異なる地域として「古世町」や「荒塚町」が成立していたことがわかり、城下の「町」が重層的に存在していたことがうかがえます。
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