■前田玄以と亀岡市域
これまで見たように、前田玄以の頃に丹波亀山城下町の整備が進められていましたが、亀岡市域においても、玄以と息子らによって各種施策が進められたことがわかっています。
亀岡市域には、文禄五年(一五九六)の検地帳の写が四点現存していますが、このいわゆる「太閤検地」は前田玄以の家臣である尾池氏(おのいけし)らによって実施されたものです。検地帳には、田畠それぞれに上・中・下のランクが記されますが、これは以前までの検地帳には記されていなかったもので、この段階の検地で新たな基準が設けられていたことがうかがえます。
また、別院荘の領主であった長澤重綱(ながさわしげつな)は、十七世紀初頭に作成した置文(遺言状)の中で、前田玄以・秀勝に仕えて牧・神路の両村を宛行われ、別院庄の「仕置」も任せられた。しかし、慶長七年(一六〇二)に玄以が亡くなると息子の茂勝が篠山城へ転封してしまったために牢人となった、と記しています。
前田玄以・茂勝による支配が別院荘にも浸透していたことがわかります。
両氏が城主の時代、慶長五年(一六〇〇)に関ケ原合戦をむかえますが、前田家は朝廷と深いつながりがあったために家康から赦免され、丹波亀山城主の座を安堵されます。
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