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文化財めぐり 457

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京都府亀岡市

■大阪冬の陣と別院長澤氏
徳川家康が征夷大将軍に任命されて、まず着手したのが豊臣家の討滅でした。徳川政権が発足したとはいえ、豊臣家後継である秀頼の求心力は未だ強く、中央集権を進めるうえで豊臣家との対決は避けられないものでした。
そこで、方広寺梵鐘銘(ほうこうじぼんしょうめい)問題をきっかけとして、いわゆる大阪冬の陣が勃発するのですが、亀岡市域でもこの戦に参陣した人物が多くいます。その一人が、別院地域の領主だった長澤氏です。
長澤氏は、もともと室町幕府や丹波国守護細川氏に仕えていた中澤氏を祖とする一族で、戦国時代頃から長澤を名乗っていました。長澤重綱(しげつな)が慶長十八年(一六一三)に記した置文(現在の遺言状)によれば、重綱は、亀山城主前田茂勝が篠山城へ転封されるのに伴い牢人となったため、稲富(いなとみ)氏の門弟となって鉄砲の砲術を身に着け、豊臣秀頼に召し抱えられることとなったといいます。
こうして秀頼被官となった重綱は「家門の浮沈は秀頼様御運次第なり」と記し、「たとえ骸(むくろ)は戦場にさらすとも名を末代に残さん」と冬の陣にのぞむ覚悟を記しています。
徳川政権と豊臣家の対決が、この亀岡市域の領主たちにも影響を及ぼしていたことがうかがえます。

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