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(特集)東妙寺文書ー本来の姿 よみがえるまでー

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佐賀県吉野ヶ里町

吉野ヶ里町田手にある東妙寺が所有する国重要文化財「東妙寺文書(とうみょうじもんじょ)」が、およそ100年ぶりに修理されました。この特集では、「東妙寺文書」の歴史的価値や修理の内容などを詳しくお伝えします。

「東妙寺文書」は、天皇の命令書である綸旨(りんじ)を含む、鎌倉時代から江戸時代までの古文書32通で構成されています。平成2年、「東妙寺并妙法寺境内絵図(とうみょうじならびにみょうほうじけいだいえず)」とともに国重要文化財に指定されました。
32通の中には、後醍醐天皇から派遣された征西将軍宮懐良親王(南朝側)が近臣に書かせた文書をはじめ、幕府から派遣された九州探題今川了俊(北朝側)が祈祷のお礼を述べた文書などが含まれています。蒙古襲来をきっかけに天皇の命で創建されたと伝えられる東妙寺ですが、朝廷の権威が薄れて幕府が台頭してからは足利氏によって保護がなされていたことや、真言律宗総本山西大寺(奈良県)が足利義満を通して九州探題渋川満頼に頼ったことなどが分かります。
これらの文書により、律宗寺院の変遷と朝廷・幕府との関係等を明らかにできる、歴史的価値が高い文化財です。
32通の文書は巻物に仕立てられていましたが、解体したところ、表装する際に施されることの多い相剝(あいは)ぎ(1枚の紙を上下2層に薄く剝ぐこと)の痕跡がほぼ無いことが判明。折り目や寸法など文書が作られた当時の状態がよく分かるよう、巻物に戻さず1枚ずつの状態で保存されることになりました。

■INTERVIEW
◇本物の“空気”に触れてほしい 次代へつなげる文化財
東妙寺 早田空順住職
修理された姿を見た時は、正直ほっとしました。紙の文化財はとてもデリケートで、定期的に修理しなければ文字は消え、虫に食われ、元の状態が損なわれていきます。私の代から次の代へつなげる役目を果たし、肩の荷が下りた思いです。
記されている文言は電子データでも残すことはできますが、本物にはデータや複製品にはない“空気"があります。筆遣い一つとっても、威厳を示すかのように堂々とした筆致だったり、親しみや優しさが感じられたりとさまざまです。
修理事業が完了したら、たくさんの人にじかに見てもらい、歴史に触れてほしいと思っています。人の目に触れる機会が増えれば、いつか「東妙寺文書」の新事実が発見される日が来るかもしれませんね。

■どう違う?修理前後比較
~「西大寺役者連署東妙寺掟書」(元禄4(1691)年)で比べてみよう~

〇修理前
汚れの付着や紙の酸化、湿度などの影響により、全体的に茶褐色に変色しています。また、折り目部分には強く摩擦がかかったためか、本紙の一部が欠けるなどの損傷も見られます。

〇修理後
ドライクリーニングの後、ろ過水で水溶性の汚れを除去。組成検査を行い、当時と同じ材質の補修紙を新たに作って欠けた部分を補っています。文書本来の折り目は生かしたままになっています。

■東妙寺所蔵のその他の文化財
〇東妙寺幷妙法寺境内絵図
(縦89.2cm、横139.2cm)
北の田手川上流から左岸に東妙寺、右岸に妙法寺の伽藍(がらん)が描かれ、鎌倉末期における律宗寺院の規模や姿を伝えています。

〇木造釈迦如来坐像
(像高110cm/ヒノキ材/寄せ木造り)
鎌倉時代、運慶の作と伝えられる東妙寺の本尊。肌の部分には金泥、衣の部分には漆下地に金箔が押されています。

■修理現場リポート
修理で最も大切なのは「文化財の価値を最大限、未来に伝える」こと。そのため、劣化や損傷の原因を取り除いて、極力、現状が維持されるよう努められています。
今回の修理では、1枚ごとに紙質を調べ、同じ材質の繊維から補修紙を新たに作り、欠けた部分が補われました。主な原料であるコウゾや、紙を白くするために用いられた米粉、すき返し紙に含まれる墨の粒子の含有量など、1枚1枚の特徴を捉えながら補修されています。
文字の墨部分は、剥げ落ちる危険がある箇所をにかわ(牛の皮を原料とした接着剤)で補強。新たに墨を足すのは最小限に留め、現存する墨をより多く残すための処理が施されました。
担当したのは、九州国立博物館内の工房「宰匠(ざいしょう)」。同社の宇都宮正紀会長は「修理は、文化財の価値を損なうことなく後世に伝えるためにも重要な作業。しかし、修理技術者や原材料・用具の生産者も年々減り、技術継承が難しくなっている。文化財修理を知ることで、こうした人々を応援してほしい」と話しました。

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