文字サイズ
自治体の皆さまへ

唐ワンくんの唐津今昔物語151

20/30

佐賀県唐津市

「唐津の記念物」(32)
~唐津の史跡・名勝・天然記念物~
寺沢志摩守広高(てらざわしまのかみひろたか)墓園(唐津市指定史跡)
寺沢志摩守広高の墓園は、鏡神社に隣接していて、約1,200平方メートルの広さの墓園の奥に墓碑(ぼひ)があります。この墓碑は、花崗岩(かこうがん)を使用した笠塔婆(かさとうば)形式で、高さ約7m・幅1.4mと九州の大名墓碑(だいみょうぼひ)でも最大規模です。唐津城の石垣を積み上げた石工(いしく)集団により造られたと考えられます。碑銘(ひめい)は「前志州太守休甫宗可居士(ぜんししゅうたいしゅきゅうほそうかこじ)」と刻まれ、左面に「寛永(かんえい)第十癸酉(みずのととり(1633)」右面に「孟夏(もうか)十一日(享年七十一歳)」と刻まれています。
唐津藩初代藩主の寺沢志摩守広高は、永禄(えいろく)6(1563)年に尾張国(おわりのくに)(現在の愛知県)に生まれました。寺沢家は代々織田(おだ)家に仕えていましたが、天正(てんしょう)10(1582)年の本能寺の変後は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側近として働き、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(朝鮮出兵)の際に輸送指揮の責任者として活躍しています。その後、上松浦(かみまつうら)を支配していた波多(はた)氏が秀吉から領地を没収されたことで、上松浦地方の代官となりました。唐津一円を領した広高は、秀吉の没後、徳川家康(とくがわいえやす)に接近すると関ケ原の戦いでは東軍(徳川方)に属し、その戦功により天草郡(あまくさぐん)4万石を与えられました。12万3千石の大名になった広高は、慶長7(1602)年に唐津城の築城に着手しています。ほかにも松浦川の大改修や防潮林の植樹(虹の松原)など、この時の大規模な土木工事で、現在の唐津市街地の基礎が造られました。

問合せ:生涯学習文化財課
【電話】72-9171

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU