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紫式部(むらさきしきぶ)・和泉式部(いずみしきぶ)・小式部(こしきぶ)の物語 挿絵(6)

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佐賀県多久市

多久家資料『小しきふ(小式部)』を編集

平安時代中期の歌人赤染衛門(あかぞめえもん)も中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし(あきこ))に仕えていました。知り合いだった和泉式部(いずみしきぶ)の恋を見舞い、互いに和歌の贈答を行っていた時期に、物語は次のような展開を見せます。
八坂の巫女(みこ)を呼び占いをしたところ、「節分の夜には夫婦のことを定める神がおられます。お参りしてお祀(まつ)りしましょう。」と言ったので、その夜に出雲路(いずもじ)の社(やしろ)に連れだって参詣しました。実は、このことを聞いていた夫の藤原保昌(ふじわらのやすまさ)も社の陰で待っていました。巫女は「霓裳(げいしょう)恋の舞を」と言って和泉式部に舞わせました。あでやかな衣と袴の上に簪(かんざし)、鬘(かづら)、帯、胸守、下沓(したうづ)、履(くつ)に扇をかざして袖を翻(ひるがえ)し、事静かに舞い納めました。まるで天人のようで、社の中は澄み渡りました。[挿絵6]
楊柳が春風になびくがごとく、和泉式部は袖をひるがえし、〔千早ぶる 神の見る目も 恥づかしや 身を思ふとて 身をや病ままし〕(霊験(れいげん)ある神様が私を見る目も 恥ずかしいことです 身を守るため 我が身を痛めることをするでしょうか 私は噂(うわさ)が嘘(うそ)であることを認めて欲しく 苦しい行いをしているのです)と詠じました。すると神様も気の毒とお思いなられたのか、和泉式部の潔白を受け入れ、参詣の人々も感涙(かんるい)を流しました。保昌も感に耐えかね走り出て、舞姫を抱き我が宿所(しゅくしょ)へ帰り、仲睦(なかむつ)まじくなられた、と物語は記しています。

※原本の挿絵は色絵になっています。郷土資料館に写真を掲示していますので、お立ち寄りの際にご覧ください。

多久市郷土資料館長 藤井伸幸(ふじいのぶゆき)

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