多久家資料『小しきふ(小式部)』を編集
和泉式部は、平安時代中頃の歌人・作家で、『和泉式部日記』『和泉式部集』を残し、「小倉百人一首」にも和歌があります。二人の親王の求愛を受け、一条天皇の中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし(あきこ))に仕えました。藤原保昌と再婚し、夫の赴任地の丹後国で過ごしました。
物語は次のように続きます。和泉式部は、道命法師(どうみょうほうし)に和歌などを習っていたことで、男女の仲を疑われました。そこで、母の紫式部は、女房の振る舞いについて伊勢物語を取り上げ、和泉式部に教えました。
在原業平(ありわらのなりひら)は秋篠(あきしの)の里(さと)に妻がありましたが、河内の女性の元へ通っていました。しかし、妻は妬(ねた)む様子がなく送り出し、業平は不思議に思いました。ある夕暮れ前栽(せんざい)に隠れ、妻の様子を見ていると、夜が更けて簾(すだれ)を巻き上げ、想夫恋(そうふれん)という曲を弾(ひ)きました。〔風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が 一人越ゆらん〕(風が吹くと 沖に白波が立つように その立田山を夜半に君が たった一人でお越えになるのでしょうか)と詠んで、胸の下燃えを休めようと、銚子(ちょうし)(鍋)に水を入れて胸の上に置くと、湯に沸(わ)きかえりました。[挿絵5]この和歌に感動した業平は、走り出て「私はここにいる」と言い、妻を深く想い、それからは河内へは行かなくなりました。
これらの教えの最後に、伊勢物語だけでなく、源氏物語も詳しく習うようにと、物語は薦(すす)めています。
※原本の挿絵は色絵になっています。郷土資料館に写真を掲示していますので、お立ち寄りの際にご覧ください。
多久市郷土資料館長 藤井伸幸(ふじいのぶゆき)
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