多久家資料『小しきふ(小式部)』を編集
和泉式部と幼子による和歌の贈答の後、出てきた童は上品・優美で、しかも老夫婦とは年が離れていました。和泉式部が事情を聞くと、老夫婦は「東寺の門に捨て置かれた子で、色付きの衣を着せられ、蒔絵(まきえ)の箱に入れられていた。その箱は今もあり、歌が書かれていた。」と答えました。「それならば私の子に間違いありません。」と言い、箱に記した和歌〔みなかみに もゝ夜のしもは ふらばふれ なぬかなぬかの 月といはれじ〕(すべての髪に 百夜続けた霜が 降るならば降れ 七日七日で 十四日の小望(こもち)(子持)月(づき)とは言われまい)をそらんじ、歌が一致することを示しました。
和泉式部が「この子が私の子だと分かったので都に連れて上りたい。」と言うと、老夫婦は固辞しました。姫もまた「私も承諾できません。何の罪で何が嫌で私を捨てられたのか。姥(うば(おうな))と翁(おきな)が私を拾い、大切に育てられた恩を忘れ、都へ参ることは決してありません。」と涙を流して恨みました。[挿絵9]和泉式部は言葉もありませんでしたが、これも観音様の御利益(ごりやく)で娘に逢(あ)えたわけで、この由を都に伝えました。すると、姥と翁の衣装まで準備され、三人を連れ上京することができました。このことを朝廷も聞き届けられ、丹後の国、与謝(よさ)の郡(こおり)を与えられました。老夫婦もそこへ移り豊かで幸福に暮らしたと、物語は記しています。
※原本の挿絵は色絵になっています。郷土資料館に写真を掲示していますので、お立ち寄りの際にご覧ください。
多久市郷土資料館長 藤井伸幸(ふじいのぶゆき)
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