文字サイズ
自治体の皆さまへ

【特集】土生遺跡国史跡 指定50周年記念 スゴイぞ! 土生遺跡(はぶいせき) 1

1/48

佐賀県小城市

昭和46(1971)年、偶然の発見から建物跡や多数の木製品、土器、石器が見つかり、その成果から初期農耕文化の実相を知るうえで重要な遺跡と認められ、昭和48(1973)年には遺跡の一部が国史跡に指定された土生遺跡。国史跡指定50年目を迎える今年、遺跡の重要性を知るとともに、小城市域で初めての大規模集落を知ることで2000年前のロマンを感じてみませんか?

■土生遺跡はこんな遺跡です
◇平野部に位置する弥生時代の大集落
土生遺跡は有明海の最も奥まった平野部に位置しています。北部には天山を主峰とする天山山系がそびえ、その山系を水源とする晴気川や祇園川の堆積作用によって形成された標高7〜10mの扇状地上に立地します。
およそ2000年前の弥生時代中期は、JR長崎本線のあたりが海岸線だったと考えられています。海にも山にも近いこの場所で弥生時代の土生の人たちは農耕生活を営み、大陸系の文化と交わりながら発展し、独自の文化を築いていきました。

◇佐賀平野のクニグニ
中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると弥生時代の北部九州には、末蘆国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なごく)などのクニがありました。佐賀平野にも弥生時代中期前半頃の河川の流域などに吉野ヶ里遺跡のようなクニが成立していきました。クニには中心的な集落があり、その集落がいくつかの小さな集落を統合していたようです。土生遺跡は小城のクニの中心的な集落であったと考えられています。

■土生遺跡のスゴイところ
◇巨大な集落ー土生遺跡群ー
土生遺跡に隣接する仁俣(ふたまた)遺跡や久蘇(くしょ)遺跡では朝鮮半島の文化の影響を受けた無文土器や木製農耕具、青銅器の鋳型が出土するといった共通点が確認されています。弥生時代中期にはこれらの遺跡が一体となって1つの大集落を形成していたと考えられています。
土生遺跡と仁俣遺跡、久蘇遺跡からなるこの大集落は佐賀平野の嘉瀬川以西では最大規模の拠点的な集落で、近年はこれらの遺跡を総称して「土生遺跡群」と呼んでいます。

◇独自の進化!?「朝鮮系無文土器」
土生遺跡群では、牛の角のような把手のついた壷、ひも状の粘土帯がめぐる甕(かめ)、脚部に粘土がつまった高坏(たかつき)など、明らかに在地の弥生土器とは異なる形や色の土器が出土します。
朝鮮半島の土器に類似した特徴を持つことから朝鮮系無文土器と呼ばれています。弥生土器の影響を受けながら変容したものも多くみられることから、渡来してきた人々が土生遺跡群に長期間にわたって滞在し、在地の人とともに生活を送るなかで集落内に定着していった可能性を示しています。

◇土生が初期青銅器の生産拠点だった!
外来系の文化との交流によって、土生遺跡群に青銅器の生産技術も伝わります。
土生遺跡群からは銅剣や銅矛、ヤリガンナなど9点の青銅器鋳型が出土しています。
鋳型とともに出土した土器から、弥生時代中期前半頃には本格的な青銅器の生産が行われていたと考えられます。また、日本国内における初期青銅器の生産拠点の1つであったことが分かりました。

◇農耕社会の確立が早まる!?
縄文時代には狩猟採集によって食料を得ていたと考えられていますが、弥生時代になると稲作などの農耕栽培によって食料を得ることができるようになりました。
土生遺跡発見以前は弥生時代後期になってから安定した農耕社会ができたと考えられていましたが、土生遺跡から弥生時代中期の木製農耕具が出土したことによって、国内における農耕社会の確立時期が100年以上さかのぼることになりました。

○幻の農具「踏鋤(ふみすき)」の出土!
土生遺跡からは朝鮮半島との交流を示す農耕具も出土しています。韓国では「タビ」と呼ばれる木製の踏鋤が、土生遺跡から組み合わされた状態で出土しました。同時代の踏鋤は韓国でも出土していませんでした。

■集落の終焉
在地の弥生人と朝鮮半島から渡来してきた人々、彼らの子孫がともに暮らした大集落は弥生時代中期後半頃から後期にかけて衰退し消滅してしまいます。
かわって土生遺跡群の北側、標高25m以上の場所に位置する丁永(ちょうなが)遺跡や八ッ戸(やつえ)遺跡、布施ヶ里(ふせがり)遺跡などで大規模な集落が形成されていきます。土生遺跡群で生活していた人々がどこに移り住んだか分かりませんが、弥生時代中期後半以降、標高の高い場所に位置するこれらの遺跡が小城の中心的な集落として発展していきました。

◇調査は今も…
50年の間で20次の調査を重ね、たくさんの出土品がありました。発掘された破片を根気よくつなぎ合わせ、当時の様子を調べています。

◆土生遺跡物語 偶然の発見!
昭和46年このあたりの地下には炭鉱のトンネルがありこれが地盤沈下したために、その復旧作業が行われていた
現場の脇の道を通りかかった学生が土器の破片が大量にちらばっているのに気づいた
学生は佐賀県の教育委員会に通報した。通報を受けた佐賀県の教育委員会は早速緊急調査を始めた
しかし工事の期限がせまっていたため調査は連日深夜にまでおよんだ!
調査では多くの土器や木製品柱の跡などが出土した
その結果ここは約2000年前の弥生時代の農耕集落遺跡で、大量の遺物が出土し、当時の人々の暮らしぶりを伝える極めて価値の高い遺跡であることが分かった
全国から多くの学者が見学にやってきたり国からも注目された
そして昭和48年には国の史跡に指定された!

『マンガでみる三日月町の歴史 史跡土生遺跡』(1993)
発行:佐賀県三日月町教育委員会

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU