■鍋島元茂(なべしまもとしげ)と伊達政宗(だてまさむね)の交流
小城藩初代藩主鍋島元茂は、慶長19(1614)年に江戸へ行きます。以後、寛永19(1642)年の参勤交代で、江戸と佐賀を往復するようになるまで、ほとんどを江戸で過ごします。
江戸では、徳川家の剣術指南役を務めていた柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に入門します。後の三代将軍となる徳川家光(とくがわいえみつ)の稽古相手役も務めていました。
小城市立歴史資料館に展示中の柳生宗矩書状では、「松奥州(松平陸奥守/伊達政宗)から茶会の誘いが来ています。三月十八日の朝、茶会を催すとのことで、お越し下さるように内々に申し入れたいとの(政宗の)考えです。都合を尋ねられると思います。お出でになるかどうか、お知らせください。三月六日柳生宗矩」と伊達政宗から茶会に誘われていることを伝えています。
伊達家の記録「伊達治家記録」という資料の元和6(1620)年3月の項に、「十八日、鍋島紀伊守元茂を饗応せらる。」という記述があります。
柳生宗矩の書状には、年号が書かれていませんが、3月18日の茶会の記述が一致することから、元和6年と考えられます。
鍋島元茂の家臣持永茂成(もちながしげなり)らが佐賀藩の家臣鍋島生三(なべしましょうさん)に宛てた書状では、「付き合いは出費が増えるから困る。しかし、佐賀藩主鍋島勝茂(かつしげ)の代わりに元茂が幕府や他の大名と交流を続けることは、勝茂が江戸にいることと同前で家臣にとっても満足に思う」と伝えています。
江戸での鍋島元茂は、幕府や他家と交流し関係を続けていく役割を果たしていたと考えられます。
(『小城の歴史84号』「伊達政宗邸の茶会はいつ?」より)
小城郷土史研究会/著
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