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とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜 第107回

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佐賀県鳥栖市

■吉野ヶ里遺跡の時代の鳥栖
国営吉野ヶ里歴史公園を訪れたことがある人も多いと思いますが、吉野ヶ里遺跡が最盛期であった弥生時代後期後半頃(1850年くらい前)の鳥栖地域はどのような様子だったのでしょうか。
当時の中国の文献には、この頃の主に西日本には百以上のクニ(国)が存在していたと記されています。これらのクニは現在の郡(三養基郡や神埼郡など)くらいの範囲で、それぞれ拠点集落といわれる大集落を中心に周囲に中小規模の集落が配置されていました。鳥栖地域のこの時期の拠点集落は、現在の藤木町に存在したと考えられています(藤木遺跡)。
遺跡の中心部と考えられるところは、周囲に大きな溝(環濠)が巡らされていました。溝は復元すると幅が約6m以上、深さは約3m以上になります。断面はV字形です。環濠の中からは、当時の日常生活で使われた多くの土器とともに青銅器の鋳型も見つかりました。
この環濠に囲まれた範囲は、南北300m以上、東西は広いところで200m程度あったものと推定されます。
藤木遺跡が衰退した弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけての時期(1800年くらい前)、広く近畿地方から北部九州地方にかけて環濠のある拠点集落が一斉に廃絶する事態がみられ、大きな変革が当時の社会にあったと考えられています。吉野ヶ里遺跡や藤木遺跡も、環濠が一気に埋められるとともに、集落は終焉(しゅうえん)を迎えました。
その後、鳥栖地域の拠点集落は現在の蔵上町から養父町にかけて移動・展開し、古墳時代を経て奈良時代の養父郡家(ぐうけ)(郡の役所)へとつながるものと考えられています。
現在の藤木町はその後の長い歴史で再び集落として利用されてきました。発掘調査も部分的にしか実施されていないので、吉野ヶ里遺跡のような全体像をつかむことは困難ですが、今後の調査によっては物見やぐらや大型建物跡などが見つかるかもしれません。
(鳥栖市誌第2巻第2編第3章第2節より)

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