■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第6話
―川上左京亮忠堅(かわかみさきょうのすけただかた)―
川上左京亮忠堅は島津家の武将で、地元では『川上左京』の名で親しまれており、天正12年(1584年)の沖田畷(なわて)の戦いでは、総大将龍造寺隆信(たかのぶ)を討ち取った猛将です。天正14年(1586年)の勝尾城攻めでは、城主筑紫広門(ひろかど)の弟春門(はるかど)と一騎打ちとなり、激闘の末相討ちとなったと伝わります。しかし島津家側の認識は少し異なるようです。
戦国時代の島津家で活躍した人物をつづった『本藩人物誌』によると、川上左京亮忠堅は勝尾城での一騎打ちの果て、春門に右腕を切られ撤退したとされています。島津家側の認識では一騎打ちは春門が勝ったということです。しかし春門もその後、島津軍の追撃を受けて討ち取られたそうです。一方、深手を負った忠堅はその数時間後に息を引き取りました。遺体は島津軍の拠点となっていた熊本県八代市に送られ埋葬されたそうです。当時八代には忠堅の父が駐留しており、息子の死をひどく悲しんだことが当時の日記に記されています。
ちなみに、忠堅の息子久林(ひさしげ)は島津義弘(よしひろ)に付き従い『朝鮮出兵』『関ケ原の戦い』『大阪夏の陣』などに参加しています。特に関ケ原からの退却戦『島津の退き口』では井伊直政の追撃に対して、久林は2人の叔父(忠堅の弟)とともに足止め役を務め、3人とも無事に薩摩へ帰りました。
忠堅の孫・久盛は、寛永9年(1632年)に肥後熊本藩加藤家の改易(かいえき)に際して、肥後との国境を封鎖する軍勢に参加しています。
相対する肥後には加藤家に仕える筑紫家の元家臣たちの領地があったとされています。一騎打ちから46年後、川上家と筑紫家は一触即発の状況にあったのです。(鳥栖市誌第3巻第6章第4節より)
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