■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第8話―筑紫と龍造寺―
先日、白石町の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の居城とされる須古城(すこじょう)から出土した瓦と、勝尾城で出土した瓦が『同范(どうはん)(同じ型で作られたもの)』と報道されました。この瓦が使用された詳しい時期は分かっていませんが、筑紫家と龍造寺家の間で何らかのつながりがあったことが伺える資料です。しかし、両家の関係は複雑でした。
元々筑紫家と龍造寺家はともに少弐(しょうに)家に仕える同輩でした。しかし、少弐家が弱体化していく中でそれぞれの道を歩んでいきます。
元亀(げんき)元年(1570年)の今山合戦(佐賀市)で龍造寺家は大友家に勝ち、少しずつ佐賀県東部へ侵攻をはじめます。
このころ大友家から、筑紫家や筑後地方の各城主へ、龍造寺家の侵攻を警戒し、防衛に努めるようにと書状が残されています。また、筑紫家の持ち城の一覧として伝わる『城数之覚』に「龍造寺家へ引き渡した城」として、みやき町の綾部城と千栗(ちりく)城が記載されています。龍造寺の勢力が勝尾城のすぐ近くまで迫っていたことが伺えます。
しかし、天正(てんしょう)12年(1584年)龍造寺隆信が沖田畷(なわて)合戦(長崎県島原市)で島津家に討ち取られます。すると翌年、筑紫家と龍造寺家は、大友家相手に共闘、秋月家を合わせた3者で島津家に使者を派遣するなど、両家は協力関係になったようです。
ところが、天正14年(1586年)筑紫家は島津家からの人質要求を拒否し、大友家と同盟を結びます。島津家の敵となった筑紫家は、結果的に龍造寺家の敵となります。同年7月勝尾城を取り囲む島津軍の中には、龍造寺家の兵士もいたと伝わります。
勝尾城と須古城、2つの城から出土した瓦は、筑紫家と龍造寺家2つの家のつながりを示す数少ない証拠なのです。(鳥栖市誌第3巻第6章より)
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