■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第10話―筑紫家の分裂―
天文2年(1533年)9月7日、周防国(すおうのくに)(現山口県)を拠点とする大内家(おおうちけ)は、筑紫正門(ちくしまさかど)の城を攻めました。この時攻められた城は『基肄郡宮雄(きいぐんみやお)城』で、勝尾城ではありません。
この頃の筑紫家は『親少弐(しょうに)・大友派』と『親大内派』に分裂した状態でした。正門は少弐家・大友家と手を結び、正門の父親である秀門(ひでかど)は、大内家の家臣から養子をもらうなど、大内家と友好関係にありました。
正門が宮雄城を拠点としていたことから当時、勝尾城には秀門がいたものと推測されます。
攻撃を受けた正門は翌年、少弐家・大友家の一翼として反撃を開始し、筑後地方や現在の筑紫野市近郊などで戦闘に参加した記録が残っています。
一方、秀門は大内家に領地を認めてもらうなど、大内家との結びつきを更に強化していきました。その影響か筑紫家の家臣団の中には、大内家にルーツを持つ武将が多くみられます。
親少弐・大友派として、活躍を続けた正門でしたが、天文8年(1539年)現在の朝倉市で起きた大内家との戦闘で、戦死してしまいます。この時、秀門もこの世に無く、筑紫家は後継者問題が起きました。
大内家の家臣から秀門の養子となっていた筑紫輝門(てるかど)は、他の重臣らと共に、寺に預けられていた秀門の末子を『筑紫惟門(これかど)』として筑紫家の当主としました。その後輝門(てるかど)は、家老として惟門を補佐します。
天文12年(1543年)筑紫惟門は、少弐家と連名で千栗(ちりく)八幡宮へ鐘を寄進しています。このことから筑紫家は『親少弐・大友派』を方針とし、正門一派との分裂が解消したと推測されます。
しかし、大内家出身の家臣を多く抱えることになった筑紫惟門(これかど)は、この後『親大内』に路線を転換して、戦国の世に臨むのでした。(鳥栖市誌第3巻第3章より)
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