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とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜第116回

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佐賀県鳥栖市

■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第12話―惟門(これかど)の最後―

永禄2年(1559年)1月、少弐冬尚(しょうにふゆひさ)が龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に攻められ、勢福寺城(せいふくじじょう)(神埼市)において自害し、名門少弐家は滅びました。その頃、筑紫家当主筑紫惟門は、宣教師ルイス・フロイスの記録によると約2千の兵士を率いて、大友家が支配する博多の町を襲撃したとされています。その一方で、3月に筥崎宮(はこざきぐう)(福岡市東区)へ領地を寄進して親善を図っています。
そんな惟門の行動に大友家は激怒し、4月2日、惟門討伐のため、筑後地方の武将を中心とした約1万の軍勢を集めます。大友家の大軍が目指したのは、勝尾城ではなく、天拝山城(筑紫野市)でした。おそらく大友家の目的は『筑紫家の本領を脅かすこと』『博多への経路を遮断すること』だったのでしょう。
大友家の軍勢は、天拝山城を包囲するも落とすことができませんでした。一旦、態勢を整えるべく撤退したところを惟門は見逃さず、侍島(筑紫野市下見)にて奇襲をかけ大友家の大軍を敗走させます。戦いに参加した筑後の武将たちが大友宗麟に出した被害報告の書状から、被害の大きさを伺い知ることができます。
この『侍島合戦』は惟門最大の戦果でした。合戦には、天拝山や博多に近い大友方の宝満山城(太宰府市)や立花山城(福岡市東区)に所属する武将たちが見受けられません。惟門は博多襲撃に際して『周辺の城が出撃できないタイミングを狙った』とも考えられます。
その後、惟門は龍造寺らに攻められ敗北を喫します。大友家への反攻に限界を感じた筑紫家は、惟門を隠居させることで、大友家との関係を改善していくことになります。
(鳥栖市誌第3巻第3章第2節より)

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