■氷上郡の総選挙と松元剛吉(まつもとごうきち)
神戸大学大学院人文学研究科 出水清之助
俳人細見綾子生家(東芦田)で保存されてきた「細見家文書」の中に、明治41年(1908年)の第10回衆議院議員総選挙に関わる資料の一節があります。
任期満了に伴い実施された同選挙は、日露戦争後初の総選挙でした。深刻な戦後不況が問題化する中で、第一党の立憲政友会や西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の趨勢(すうせい)に注目が集まった選挙で、また、戦時増税の結果として選挙人口が戦前の約2倍にまで膨れ上がった選挙としても知られています。
公示日以降、氷上郡(現在の丹波市)でも選挙運動が展開されていきます。当時は大選挙区制(県内の全25郡で一つの選挙区)が敷かれていたため、さまざまな候補者が氷上郡を訪れて選挙運動を行いました。その中で最も勢力のあったのが松元剛吉でした。
松元は文久2年(1862年)8月8日に柏原藩士今井源左衛門(いまいげんざえもん)の五男として生まれました。同郷の先輩である田健治郎(でんけんじろう)の側近でもあった彼は、田の地盤を引き継ぐ形で明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙に兵庫県から出馬し当選しています。このような来歴を持つ松元は、今回の総選挙でも順調に支持を獲得したようで、選挙直前の新聞報道では「氷上郡の票の過半数を獲得する見込みである」と報じられました。
松元はどのように集票したのでしょう。
「細見家文書」には、選挙前に、松元剛吉や田艇吉(ていきち)(田健治郎の兄)が細見綾子の叔父細見喜作に宛てて送った書簡が残されています。内容はいずれも松元への支持を求めるものでした。細見喜作は明治32年(1899年)から25年間、芦田村の村会議員をつとめた人物です。喜作のような地域の有力者に対しては、直接書簡を送付し、支持を促していたことが確認できます。
こうした地道な働きかけが功を奏し、松元は無事に当選することができました。当選後の松元は政治家として氷上郡に何をもたらしたのでしょうか。
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