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歴史探訪 シリーズふるさとを見直そう

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兵庫県丹波市

■江戸時代の谷川村の副業事情
神戸大学大学院人文学研究科 井上 舞

江戸時代の丹波市域の人々は、どのように生計を立てていたのでしょうか。その一端をうかがい知ることができる「諸産業書上覚帳(しょさんぎょうかきあげおぼえちょう)」という史料が、山南地域の高座(たかくら)神社文書の中に残されていました。類似の史料が2点あり、それぞれ谷川村7か村のうちの、中町村と中之村について記されています。どちらも作成年代は文政13年(1830年)10月で、書式も共通していることから、この時期に谷川村一帯で一斉に調査が行われたようです。
中町村の「諸産業書上覚帳」には、全部で31軒分の記載があります。項目は、世帯主の名前・所持高(所有する田畑の総計)・生業(なりわい)が記入されています。このほか、飼っている牛についても記載があり、中町村には計8頭の牛がいたようです。
生業に関する記載をみると、中町村では、農業だけに従事する家は13軒、農業はせずに豆腐売りや医業、屋敷への奉公など、諸商売のみを行う家が5軒と記されています。それ以外のほとんどの家は、農業の合間に副業にいそしんでいました。副業の具体的な職業としては、旅をしながら商品を売り歩く旅商(りょしょう)、地元廻りをする小売、綿や麻の織物を扱う太物商(ふとものしょう)、樹木を伐採・製材する木挽(こび)き、牛の売買に携わる牛馬喰(うしばくろう)、その他、籠細工職(かございくしょく)、酒造、日雇い稼ぎなど、実にさまざまな職業があったことがわかります。
一方、中之村の史料は、後半が破損しているために正確な数はわかりませんが、確認できる約60軒の大半が農業にのみ従事しています。かつ、自分の土地だけでなく、他人から田畑を預かって耕作することもあったようです。このためか、牛を飼っている家も多くありました。副業も「大工」や「木挽(こびき)」に限られ、商売を営んでいるような家はありませんでした。
江戸時代の谷川村は、旗本織田家の陣屋が置かれ、地域の行政の中心的役割を果たしており、また、交通の要衝でもありました。中町村の方が陣屋や街道に近く、副業として諸商売を営む家が多かったのでしょう。

問合せ:社会教育・文化財課(山南庁舎内)
【電話】70-0819

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