■泣いて笑って56年
市村眞治さん・寛子さん(中村町)
▽おしどり夫婦誕生
「72歳と70歳のとき初めて、パスポートを作ったんよ。ね!」
そう言って顔を見合わせて笑うのは市村眞治さん・寛子さん夫婦。
眞治さんは82歳、寛子さんは80歳、結婚56年目になるおしどり夫婦です。
教員免許を持つ2人は、知り合いを通じてお見合い結婚。そこから泣いて笑っての人生が始まりました。
「僕は仕事仕事で家のことはすべて奥さんに任せて。部活動の顧問をしていると土日もないしね。子どもたちのことも親のことも、全部やってくれて助かりました。」
教員だった寛子さんは、仕事を辞めて専業主婦に。眞治さんを支えながら、3人の子育てと家事に汗を流しました。
「日記を書くのが小学生の頃から日課で、もう70年くらいかな。毎日書き続けています。その日の気持ちはその日に記さないとね。」
どんなことにも手を抜かず、おごらず、悲観せず、贅沢せず。
寛子さんは、笑顔を絶やさず家族を支えてきました。
▽教員人生にピリオド
昭和59年、眞治さんは教育の場から離れ、県民局へ転勤。慣れない職場での気苦労もあり、45歳で糖尿病を患いました。
「しんどくてね。毎日苦情やお叱りの電話対応。でもあの辛い日々も、とても勉強になりました。」
寛子さんは糖尿病を患った眞治さんのために、食事にも気を配り、夫婦二人三脚でつらい時期を乗り越えました。
眞治さんは、53歳で教育現場に復帰。その後中町南小学校、中町中学校で校長を務め、平成14年に退職。教職生活に区切り、と思っていましたが、翌年、中町幼稚園の園長を引き受け、平成17年3月まで子どもたちの教育に全力を注ぎました。
▽夫婦で世界を飛び回る
「旅行が2人の楽しみでね。」
部屋の一画にある大きな本棚にずらりと並ぶ冊子。よく見ると背表紙には細かく地名や日付が記してあります。
「これ全部アルバムなんです。自分たちの生まれたときからの写真もあるよ。」
本だと思っていたものは全部アルバム!
「いつ何があったか、これを見ると思い出がいつでも蘇るから、写真はいいね。」
▽肺がんを乗り越えて
「世界一周旅行に行こう!と計画して、ツアーに申し込んで。準備万端、よし行こう!と思っていた矢先、コロナが流行してね。」
2人にとって冥土の土産に、と思っていた旅行が白紙になり、パスポートの期限が切れてしまった、と笑う2人。コロナ禍の中でも何かと慌ただしい日々でした。
令和2年9月、眞治さんが肺がんを患い、手術を行いました。
「全然食べれないし、1度は死も覚悟しました。胃ろうをするか、と先生に言われ、もう生きている値打ちがない…と絶望しました。もう天国に行った友達が尋ねてくる夢を見たりしてね。」
それでも眞治さんは生きるんだ、とリハビリに専念し、寛子さんも全力でサポート。先生も驚く回復力で元の生活に戻ることができました。
「努力が大事ですね。病は気からと言うでしょ。諦めたらあかんね。」
2人は、その後も北海道や島根県など旅行を楽しみ、アルバムは今も増え続けています。
▽新しい景色を見たい
「見たことのないものを見て、触れて、経験することが大好き。人生どんなときも挑戦してたら元気でおれるでしょ。いろんなものをこの目で見たいんです。井の中の蛙でいたくない。」
パスポートをとって参加した海外ツアーで、新婚さんと友達になり、帰国後も定期的に集まっているという2人。
「会う度に子どもが生まれて家族が増えていてね。うれしいね。」
▽56年、そして57年目へ
挑戦することが大好きな2人は趣味も盛りだくさん。
眞治さんはグラウンドゴルフ、寛子さんはお茶。そして2人で社交ダンスに三味線。最近はスマホ教室にも参加し、ラインで友達と連絡を取っています。
「携帯を持つつもりなかったんやけど。12年前、亡くなった息子が持っていた携帯を手にしたのがきっかけで、携帯を持つようになってね。」
平成23年、長男・真人さんが、突然自ら命を絶ちました。「何しても息子は帰らないし、前を向くしかない。笑って生きようと決めました。誰でも、何もない人生なんてない。あって当然なんです。」
眞治さんは、教育現場を離れていた時間の中で、生涯教育に携わり、生涯勉強すること、楽しむことの大切さを学びました。
「家の中でじっとこもっていても仕方ない。生涯いろいろなことに挑戦して学び続けたいと思っています。」
穏やかな中にしっかりと芯を持つ眞治さんと、好奇心旺盛で天真爛漫な寛子さん。
「なんやろ、気が合うんかなぁ。56年間はあっという間。お互いを補い合いながら生きているんやろね。」
見たことのない世界を見てみたい。そんな2人の人生はいつでも新鮮さにあふれています。
「2人一緒に死ねたらいいな。」
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