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我がまち朝来 再発見(第190回)

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兵庫県朝来市

■江戸から明治時代にかけての酒屋の苦悩
NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」では主人公・槙野万太郎の生家である峰屋を取り巻く様子がたびたび描かれています。明治時代初期の土佐(現在の高知県)で酒造業を営んでいた峰屋は、江戸時代から藩主に献上する銘酒を醸造する蔵元として「土佐一」と呼ばれるほどに栄えてきたという設定になっています。ところが、明治時代に入ると明治政府の酒税の増税政策によって土佐一と言われた峰屋でさえ苦境に立たされてしまうという展開です。
国税庁のホームページによると、明治10年に国税に占める酒税の割合は約10パーセント、酒の生産量がそれほど変わっていないにもかかわらず、度重なる増税で明治32年にはその割合が約35パーセントになったということですから相当な増税です。原因が酒税の増税という全国的な政策に起因するものですから、このような苦境にたたされた蔵元は土佐に限った話ではなく、もちろん朝来市内にも同様の蔵元が多くあったことは想像に難くありません。ですが、市内の酒屋は明治政府の酒税増税よりももう少し早い時期から厳しい状況に見舞われていたようです。
朝来市内でも特に旧山東町は江戸時代中期に造酒が盛んだったようです。『山東町誌』によると正徳4年(1714)に矢名瀬町内に4件の酒屋があり32石の酒が作られています。それが天明9年(1789)の記録によると544石に増えていますが(ただし休止が314石あり、実際酒になったのは230石)、天保元年(1830)には31石、天保9年(1838)には24石に激減しています。
酒屋を営んだ人々はもともと大地主が多く、小作米を売って貨幣に変えていましたが、酒の値段は当時米の値段の2倍であったとされていて、蓄えていた米を醸造して酒に加工し、さらに儲けをだそうと酒造りをはじめたのでしょう。ところが凶作時、特に飢饉が発生するようになると、酒米として使用していた米を食用に回す必要があるため生野代官所が酒造りに制限をかけるようになります。天明9年は天明の飢饉直後にあたる時期です。江戸時代中期から後期にかけて醸造量を増産し、飢饉前にピークを迎えたが、飢饉を受け、酒米として生産していた米を食用に回した結果、天明飢饉直後には半分以上が休止となったという状況が考えられます。その後もなんらかの不振が続いたことで天保年間の量にまで落ち込んだのでしょう。
また『山東町誌』には矢名瀬町以外の山東町内の酒屋の廃業の時期がいくつか紹介されていますが、いずれも明治の初年に廃業となっています。幕末には日本全体を巻き込む戦争が勃発し、全国的に軍需によって米価が高騰しました。1850年代に1石あたり銀80~90匁(もんめ)程度の価値だったものが、幕末の慶応3年(1867)には銀870匁になっています。およそ10年ほどの間に値段が10倍になってしまい、また明治初年にかけてさらに米価は高騰していますから、山東町内の酒屋の廃業には原料である米価の高騰が深く影響したのではないかと推察されます。
市埋蔵文化財センターでは「朝来食の歴史展」と題して企画展を開催しています。(10月1日(日)まで、入場無料)食材、料理、食文化などを通して朝来の歴史を紹介していますので、ぜひお越しください。

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