■絶滅の一途をたどった岩津ねぎ
1970年に国の減反政策が始まり、岩津ねぎは転作作物のひとつとして推奨されました。しかし、農業従事者の高齢化と担い手不足の影響で生産が進まず、1975年には岩津ねぎの生産面積は過去最低となりました。岩津ねぎは絶滅の危機に瀕していたのです。
そのような状況の中で立ち上がったのは、山口地区熟年会の会長であった鴨谷喜八郎(かもたにきはちろう)氏でした。彼は、「伝統的な岩津ねぎを絶やしてはいけない」という強い信念のもと、地域の高齢者を中心に、生産を増やそうという努力を惜しまず、旧朝来町産業課や兵庫県農業改良普及センターなどに支援を求めました。その結果、鴨谷氏は1991年に結成された朝来町岩津葱(ねぎ)生産組合の初代会長に就任し、市場開拓に成功。しかし、需要が高まったものの、生産が旧朝来町のみに限られていたことや、手作業中心の栽培体制だったため、生産面積は依然として伸び悩んでいました。
その後、1997年に2代目の会長に就任した田中務(たなかつとむ)氏は、生産面積を拡大するため、旧朝来町のみで栽培されていた岩津ねぎを旧朝来郡全域(旧朝来町、旧生野町、旧和田山町、旧山東町)に広げることを提案。4町合併が予定されていたものの、生産面積の広域化には当時の岩津地域の長老から反対の声が上がり、拡大計画は難航しました。しかし、田中氏は4年間の説得を経て、ついに旧朝来郡全域への生産面積拡大を実現。さらに、機械化を進めて作業効率を向上させ、7ヘクタールだった生産面積は2001年には14ヘクタールまで広がりました。
現在も担い手の高齢化という課題は続いているものの、令和5年度時点で生産面積は約27ヘクタールまで拡大し、若手農家の参入も増加しています。これに伴い、出荷量、出荷額は年々増加。絶滅の危機にあった岩津ねぎは、伝統野菜として地域に定着するまでに至りました。
■ブランド化により、付加価値をあげる
株式会社フレッシュあさご
代表取締役 池野雅視(いけのまさみ)さん(石田)
1998年、当時の旧朝来町の農業の中心は米であり、野菜生産はほとんど行われていませんでした。しかし、米だけを作り続けることは、気候条件に不利な地域で競争に勝ち抜けない現実に加え、将来の後継者不足や耕作放棄地の増加が予測されていたため、米だけでなく野菜の生産にも力を入れる必要がありました。
そこで、株式会社フレッシュあさご代表取締役の池野さんや当時の旧朝来町役場の職員たちは、野菜の生産に力を入れるなら「農産物の地域ブランド」を確立することが重要だと考えました。「ブランドがつけばそれが付加価値になる」と見込み、当時旧朝来町のみで生産されていた岩津ねぎに着目。岩津ねぎをブランド化させるために、当時、農産物ではなじみのなかった「商標権」の取得に取り組みました。商標権の取得により、岩津ねぎの名前を他の地域で使用、栽培されることを防ぎました。
2003年に商標権を取得した後、池野さんたちは、価格設定やラベルの統一化、岩津ねぎの規格などを決め、ブランド化を進めました。また、岩津ねぎの旬が始まる11月23日を販売解禁日に、出荷終了日を岩津ねぎの旬が終わる3月21日に設定し、市内外に向けたPR活動を強化。さらに、地域ブランドとしての付加価値を高めるため、家庭で楽しめる岩津ねぎの美味しい食べ方を提案し、京阪神エリアへの販売促進活動を行うことで、知名度向上に寄与しました。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>