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〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(52)

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兵庫県赤穂市

■忍(しのび)の元禄事件
大坂の陣(1614-15年)、天草の乱(1638年)の戦禍ののちは、徳川の平和体制も確立し、かつて戦時に備えて活動していた伊賀者は、平時の職務を主とする「忍の者」として氏名(苗字通称)の明示すらみられるようになります。平時の職務は、騒動や混乱の発生を防ぐための監視・警備・情報収集など、秩序維持にかかる職務内容を主としました。
元禄14年(1701)3月14日午前11時頃に東山(ひがしやま)院(天皇)の勅使(ちょくし)の御馳走(ごちそう)役(接待役)についていた赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城大廊下で高家吉良上野介(こうけきらこうずけのすけ)を切りつけ即日切腹となった事件で幕府が最も敏感に対応したのは騒動の防止でした。赤穂藩士は約1,000人とみられますが元禄事件の7年前、水谷家5万石断絶に伴い赤穂藩から備中松山城接収に派遣された軍勢は2,500人にのぼり浅野家一門や親類縁者の大名・旗本が迎合すると大規模な武装集団の騒動につながりかねず、民衆の騒動が誘発され深刻な事態になりかねないからです。
赤穂城に江戸の赤穂藩邸から事件の一報が到来したのは5日後の3月19日早朝でしたが、あわせて藩札(はんさつ)整理の指示があったことは事件の影響で領民や赤穂藩札が流通する近隣諸藩の民衆の動揺を防ぎたいからでしょう。その後、江戸から藩主養嗣子(ようしし)浅野大学の城下騒動を戒(いまし)める第二報、さらに午後8時頃に事件即日の藩主切腹という第三報が、赤穂藩士や領内の町・村での騒動を禁止する幕府老中の通知とともに到来しました。
赤穂藩の異変に近隣の諸藩は不穏な動きに神経を尖(とが)らせ、自藩に影響が及ぶことを警戒しました。西隣の岡山藩は江戸詰めの御徒横目(おかちよこめ)の加々野伝助(かがのでんすけ)が浅野内匠頭邸出入りの者から事件翌日には浅野邸の動向をつかみ、藩主池田綱政(いけだつなまさ)は境を接する岡山藩として百姓の騒動に備え赤穂藩領へひそかに侍を派遣することについて、側用人(そばようにん)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)から了解を得ています。他領への潜入は非合法であるためです。
一方、国元の岡山では仕置家老池田主殿(しおきかろういけだとのも)から命を受けた忍支配(しのびしはい)、いわば情報部長の浅野瀬兵衛(あさのせひょうえ)が20日夕刻に瀬野弥一兵衛(せのやいちひょうえ)・今中喜六(いまなかきろく)・萩野仲右衛門(はぎのちゅうえもん)の3人の忍を赤穂城下に向かわせ、翌21日に観察・収集した情報を今中喜六が22日朝に帰藩して浅野瀬兵衛に報告しました。侍屋敷の静けさに対して、町の札場(ふだば)(藩札引換所)前には赤穂藩札を持つ町人・百姓、岡山藩など他領の者がおびただしく押し寄せ大混乱している様子や、札場に押し寄せる他領者(もの)に紛(まぎ)れて姫路藩や龍野藩の忍が潜入していること、事件に関する人々のあいまいな話しなどを第一報として伝えました。しかし報告の主眼を侍が静かなので特に問題はないとしていることは、民衆の騒動に備えなければならないという藩主の意識との隔(へだ)たりがあること、異変に遭遇し赤穂藩札額面6割の現銀引換えで4割もの損失をこうむる民衆の悲痛な思いへのまなざしを持たないことに気づかされます。

宇那木隆司(うなきたかし)(姫路市教育委員会文化財担当)

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