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〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(50)

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兵庫県赤穂市

■真田幸村の甥の孫、真田弾正
「真田弾正(さなだだんじょう)」というと、聞き慣れない方が多いことと思います。実は浅野家時代の赤穂城の絵図などを見ると、二の丸大石頼母(おおいしたのも)屋敷の向かいに「真田弾正屋敷」と記載があるものが現存します。現在の赤穂城発掘事務所の一帯あたりです。すなわち、真田弾正は赤穂城内に屋敷を持って居住していた、ということになります。
では「真田弾正」とは一体何者でしょう?

◇沼田藩の嫡子
実は真田弾正は上野国(群馬県)沼田藩主真田伊賀守信直(さなだいがのかみのぶなお)(信利(のぶとし))の嫡子(ちゃくし)「弾正忠信就(だんじょうのじょうのぶなり)」(信音(のぶおと))のことです(以下「弾正」に統一)。
弾正は大坂の陣で奮戦したことで知られている真田信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))の兄信之(のぶゆき)(上田・松代藩主)の長男で沼田藩主の河内守信吉(かわうちのかみのぶよし)の孫に当たります。
天和元年(1681)11月25日、浅野家ゆかりの軍学者山鹿素行(やまがそこう)は、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のもとを訪れました。素行の日記には次のようにあります。
晴れ。今日、浅野内匠頭(長矩)の屋敷に行った。二十二日に訳あって真田伊賀守は奥平小二郎(おくだいらこじろう)(昌章(まさあきら))に預けられ、息子の弾正は内匠頭にお預け。領地沼田は没収となった。そのため事情を聞いた。
この三日前の11月22日、真田信直は命ぜられていた両国橋修理の木材の調達を怠ったとして改易(かいえき)(領地の没収)されました(領内の失政が原因であったともいわれています)。そして、信直は宇都宮藩奥平家に、嫡子弾正は赤穂藩浅野家に、その他の信直子女は郡上(ぐじょう)藩遠藤家・上田藩仙石(せんごく)家に預けられることになったのです。
沼田藩家中は藩主信直の書付がなければ開城しないという姿勢を見せましたが、結局信直の書付が到来して、無事に沼田城は明け渡されました。
浅野家に預けられた弾正が赤穂に向けて江戸を立ったのは、沼田開城後の12月4日であると素行の日記にあります(松代藩の『真田家御事蹟稿(さなだけごじせきこう)』では6日とあります)。このとき、弾正は漢詩や和歌を作っています。そのひとつが、
あつさ弓引わかれ行親と子か見し俤(おもかげ)をかたみとそする
というもので、父の姿を見るのが最後になるのではという、弾正の哀愁(あいしゅう)がみてとれます。そして道中、鈴鹿を通っては神明(しんめい)(天照大神)を拝み、雪を見ては、
所願成就(しょがんじょうじゅ)ふるやすゝか(鈴鹿)の関の雪
という俳句も作っています。そして時期は不明ながらも赤穂に到着し、赤穂城二の丸の屋敷でおよそ6年間の幽囚(ゆうしゅう)生活を送ったのでした。

◇弾正のその後
弾正は幕府から合力米(ごうりきまい)として300俵を与えられていましたが、赤穂での生活ぶりについては判明していません。ただし、沼田家中の数人が付き添いを許されていました。
弾正は二度と父と会うことはありませんでした。赤穂幽囚中の貞享5年(1688)正月、父信直が配所(はいしょ)(罪で流された場所)の宇都宮で死去したからです。しかし、これが契機となったのでしょう。弾正はこの年の7月晦日(みそか)に赦免(しゃめん)となり、赤穂を後にして江戸に戻りました。そして、12月に寄合となり、二年後に将軍綱吉に拝謁(はいえつ)して1000俵を賜(たまわ)って真田家を再興したのでした。
後年、自らが預けられた赤穂藩浅野家の改易に弾正は何を思ったのか、残念ながらそれを知るよすがはありません。弾正はその後、采女正(うねめのかみ)と改め、宝永4年(1707)10月晦日、52歳の生涯を閉じました。跡継ぎがいなかったので一旦断絶しましたが、松代藩真田家の一族が名跡を継ぎました。しかし、のちに不行跡(ふぎょうせき)があって沼田藩系の真田家は断絶してしまいました。
弾正は現在、東京都文京区の吉祥寺(きちじょうじ)の一角に静かに眠っています。

佐藤 誠(赤穂大石神社非常勤学芸員)

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