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〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(51)

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兵庫県赤穂市

■続・大老暗殺
~万延元年三月三日~

安政7年(1860)3月3日(翌月に万延と改元)、雪の降りしきる中、江戸城に登城する彦根藩井伊家の行列が桜田門外にさしかかったとき、薩摩浪士1名を含む18人の水戸浪士たちが襲撃して大老井伊(いい)直弼(なおすけ)を討ち取った事件は、世に「桜田門外の変」として有名です。
さて、襲撃の実行指揮者は水戸浪士関鉄之介(1824~1862)。吉よし村むら昭あきらさんの小説『桜田門外ノ変』の主人公です。
鉄之介は襲撃ののち同志たちへの決起を促すため、諸国へ逃れますが、逃亡の傍ら、赤穂にも立ち寄り義士の威徳を偲ぶのでした。

◇鉄之介、赤穂に来たる
鉄之介が赤穂に立ち寄ったことは、彼の日記『南遊遺悶集(なんゆういもんしゅう)』と『庚申転蓬日録(こうしんてんほうにちろく)』に記されています。その様子は日記に語っていただきましょう(意訳、万延元年閏3月26日条)。
◎26日、よい風が出たのとのことで夜中に船が出た。船頭が愚かな者で面倒だったので、無理矢理播州赤穂の湊に着船せしめ、大石氏(内蔵助)の遺跡を訪れようとして上陸した。有名な塩の産地なので、塩を炊く煙が幾筋も風にたなびき、その光景は例えようもない。同志の木村(権之右衛門)と石(不明)は船にあって大坂まで帰り療養するとのことで、船中で別れた。そこで同志3人とともに義士の遺像を見た。なんとか寺(花岳寺)というが、松の木2株が庭に折れ曲がったり、とぐろを巻いたような形で生えていた。寺の僧に聞くと、その昔、大石氏が手植えしたものを移したもので、今はこのような形になっている。昔のことを思い、心惹かれた。この日に赤穂を去って姫路に至り、日没頃にようやく投宿した〔『南遊遺悶集』〕。
◎赤穂のなんとか寺(花岳寺)に大石良雄遺愛の松の木がある。茂っていて、とても蒼く、庭にとぐろを巻いたように生えている。感激のあまり、一首の狂歌ができた。
替らしの操をこめて植にけん おなしはいろの松は残れり
この寺に四十七士の肖像があり、当時の製作とみえて容貌はそれぞれ異なっていた。半ば破れていて惜しいことだ〔『庚申転蓬日録』〕。
これを読むと、逃亡の途中にわざわざ赤穂に立ち寄っている様子が窺えます。狂歌は内蔵助の忠義を葉色の変わらない松の緑に例えて詠んだものです。急ぎ旅だったのか、花岳寺の名前すらまともに覚えていません。
鉄之介は井伊大老襲撃の朝、雪が降っているのを見て「これは吉兆だ。天が我が忠義を助けてくれるのだ」と言ったといいます〔『水戸藩史料』〕。鉄之介は心のどこかで、自身と四十七士たちの境遇を重ね合わせていたのかも知れません。

◇水戸藩と赤穂義士
水戸藩には大石内蔵助の祖母の実家である鳥居氏が家中でした。また、事件直後から三宅(みやけ)観瀾(かんらん)『烈士報讐録(れっしほうしゅうろく)』や栗山(くりやま)濳峰(せんぽう)の『忠義碑文(ちゅうぎひぶん)』、水戸黄門の格さんのモデルとされる安積(あさか)澹泊(たんぱく)の『書大石家譜後(おおいしかふのあとにしょす)』といったように、史伝・評論を著しては赤穂義士の忠義を讃えてきました。そして幕末に青山(あおやま)延光(のぶみつ)の『赤穂四十七士伝(あこうしじゅうしちしでん)』が出るなど、水戸藩内の赤穂義士人気は衰えることはありませんでした。水戸藩の学者たちにとって、赤穂義士をどう捉えるかというのは重要なテーマであったようにも感じます。
こうした土壌に育った鉄之介ですから、彼も赤穂義士に憧れを持った一人と言えるでしょう。

その後、鉄之介は文久元年(1861)10月、越後の湯沢温泉(新潟県岩船郡関川村)に潜伏中に水戸藩の捕吏によって捕らえられ、水戸から江戸に送られたのち、翌年5月11日に斬首されました。享年39。

佐藤 誠(赤穂大石神社非常勤学芸員)

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