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〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(59)

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兵庫県赤穂市

■大石家の断絶
―内蔵助の血統は続く―

正徳3年(1713)9月大石内蔵助の三男・代三郎(だいさぶろう)(良恭(よしやす))は広島藩浅野家に仕官することとなりました。それも父と同じ1500石という破格の扱いでした。
以後、大石家は幕末までつつがなく続いたと思われがちです。これは広義の意味では当たっていますが、厳密には正確ではありません。
実は大石家は断絶していたのです。

◇無嗣断絶
代三郎は3度結婚していますが、全て離縁。子供は全て妾腹でした。また、自身も病身だったこともあり、元文2年(1737)には知行の返上を願い出る程でした。
結局、明和5年(1768)に代三郎は隠居し、家督は内蔵助の親戚・小山孫六五男の要人(かなめ)(良尚)が代三郎の次女良久(らく)を娶って継ぐこととなりました(このとき1200石)。
要人は天明6年(1786)に隠居し、良久との間に生まれた多宮(たみや)(良完(よしさだ))が継ぎました(750石)。そして多宮は寛政8年(1796)10月に33歳の若さで死去します。家督は多宮の弟の勝五郎(良忠)が継ぐことになりました。ところが、勝五郎は服喪中の11月に家督を継がないまま死去してしまったのです。
ここに広島大石家は断絶に至ったのです。

◇大石家の再興
実は代三郎には妾腹の男子が2人いました。長男の良遂(よしなり)と勝三郎という男子です。勝三郎は幼くして亡くなりましたが、良遂は広島藩士横田氏の養子となって横田又兵衛(正虎)と称していました。
寛政9年(1797)7月、この又兵衛の次男である巌(いわお)(温良(あつよし))が大石家の名跡を継ぐため、新たに召し出されて500石を賜り、ここに大石家は再興されました。巌は多宮の従兄ですが、多宮の娘・政を妻としました。
こうして内蔵助の血統は保たれました。しかし、石高は当初の三分の一となりました。
実はこのとき要人はまだ生存していました。彼は再興成った大石家を見届けた後、この年の12月に実家の小山家に引き取られ、まもなく死去したのでした。
この事実は大石家の家譜である「大石小山系譜(おおいしおやまけいふ)」に明確に記されていますが、あまり知られていません。それは「大石小山系譜」が翻刻された刊本では、この箇所が省略されたからです。

◇大石家再び断絶の危機
さて、時は下って明治時代となります。巌の孫・多久蔵(たくぞう)(良知(よしとも))の代になりました。
明治元年(1868)、泉岳寺に義士祠堂を作り、義士の木像を安置することとなりました。多久蔵は明治新政府の命により、代三郎が造らせた内蔵助・主税父子の木像を模造の目的で東京に持参しました。
この多久蔵が明治23年(1890)4月に死去しました。多久蔵には女子1人がいましたが、既に亡くなっていました。ここでもまた、大石家は断絶の危機に陥ったのです。
実は多久蔵の父良督(代三郎)には妾腹の兄信義(のぶよし)がいました。信義は広島藩士団家の養子になっていました。
明治24年(1891)5月、この信義の子、つまり多久蔵の従兄の洋造(ようぞう)(良孝(よしたか))が大石家を継ぎ、大石家の血統は命脈を保ったのでした。

赤穂義士の子孫がどうなったのか、いろいろなケースがあります。その中でも内蔵助の末裔は記録なども比較的残っていて、その来歴が明確に判明する一例です。
佐藤 誠(赤穂大石神社非常勤学芸員)

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