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〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(55)

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兵庫県赤穂市

■浅野(あさの)長矩(ながのり)とため池
浅野家は正保2年(1645)6月13日、常陸笠間(ひたちかさま)から転封(てんぽう)になり赤穂藩主となります。初代藩主は長直(ながなお)(藩主在任期間1645~71)、二代目が長友(ながとも)(同1671~75)、三代目が長なが矩のり(同1675~1701)で、元禄14年(1701)に改易(かいえき)になるまで56年間赤穂を治めました。
この間の政(まつりごと)としては、長直の時代に行った赤穂城の築城・新田開墾(しんでんかいこん)・塩田の拡張などがあげられます。その他、当地方が瀬戸内式気候であり降雨が少ない上に地形的特性から水不足に陥(おちい)りやすい地域であったため治水事業にも力を注いだとされています。中でも長矩はその治世に多くのため池を築造したことが知られています。
長矩が造ったとされるため池は鳳宮池(ほんぐういけ)(上郡町八保字小渕(やほあざおぶち))・山野里大池(やまのさとおおいけ)(上郡町山ノ里)・坂折池(さかおれいけ)(赤穂市西有年)・瓜生大池(うりゅうおおいけ)(相生市矢野町瓜生)の4つです。他に帆坂池(ほさかいけ)(赤穂市大津帆坂)も鳳宮池と堰えん堤ていの構造が同じであることから長矩が造ったため池ではないかと推察されます。
鳳宮池(かつては本宮池と表記された)は安室川(やすむろがわ)の上流部に位置し、海抜244mの高所にあります。築造時期は元禄元~13年(1688~1700)です。現在見ることができるのは大正2~3年に増築されたもので、堰堤の構造は上下流面(じょうかりゅうめん)とも一割の急こう配の石張工法(いしばりこうほう)で施工されています。大正の増築は長矩が築造した堰堤を嵩上(かさあ)げしたものと思われます。この池の堰堤は急流渓谷(けいこく)をせき止めて築造されており、難工事であったようで、村の娘を人柱(ひとばしら)に立てたという伝説が残されています。
上郡町高山(たかやま)に「本宮池増築記念碑」と「鍋谷池(なべたにいけ)新築記念碑」があり、鍋谷池(大正13~14年築造)の碑文の中には「聖人大禹(だいう)ハ洪水ヲ治メテ民(たみ)ヲ安(やす)ンジ、世ヲ済(すく)ハレタ。藩主浅野侯(こう)ハ元禄年間吾(わ)ガ本宮池ヲ開鑿(かいさく)シテ厚生ノ道ヲ図ラレ、其ノ餘澤(よたく)ハ遠ク今日ニ及(およ)ンデ居ル」とあります。
山野里大池は元禄年間に築造されたと記録にありますが、現在は改築され当時の面影を見ることはできません。しかし池畔(ちはん)には河川・堤防・池沼(ちしょう)築造などの治水・灌漑(かんがい)事業に力を尽くし地域の米づくりに大きな功績を果たした浅野家に感謝の意を表すため、寛政12年(1800)に山野里の村人たちによって「浅野長矩供養碑」が建立されています。
瓜生大池についても昔の面影を見ることはできませんが、昭和30年建立の「大池工築記恩碑」には「元禄13年領主浅野長矩公の築造にして以来瓜生上菅谷(かみすがたに)住民の受くる恩沢(おんたく)や忱(まこと)に甚大なり」と記されています。
西有年の坂折池も古い石碑や文献はありませんが、天和年間(1681~84)、長矩の時代に築造されたと考えられています。
鳳宮池の堰堤は、修築や増築の歴史を重ねながらも近年の大洪水にも壊れることはなく、浅野候が指導した一割の急こう配の雄姿を見ることができます。
これらのことから赤穂藩浅野家が当時優れた土木技術者や石工などを抱えていたことがうかがえます。そしてその後池が長く機能していた背景には土木技術はもとより、池守(いけもり)をはじめとする地域の人びとが水を大切にする気持ちが営々と引き継がれてきたことがあるのではないかと思えます。
諸留(もろどめ)幸弘(ゆきひろ)(治水神・禹王(うおう)研究会会員)

参考文献:兵庫県農林水産部農地整備課編『兵庫のため池誌』昭和59年兵庫県

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