■上杉家と吉良家
1 三重の縁
上杉家と吉良家には三重の縁があると言われます。一つには、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と三姫の結婚、二つ目は、義央と三姫の長子、三郎が上杉家の養子となり、4代藩主上杉綱つな憲のりとなったこと、三つ目に綱憲の次男義周(よしちか)が義央の養子となって吉良家を相続したことで、3代にわたる深い縁です。
寛文4年(1664)、三姫の兄である3代藩主上杉綱勝(つなかつ)が嗣子(しし)のないまま急死したことは、米沢藩を存亡の危機に陥れました。この時、上杉氏の存続をはかり幕府との交渉に奔走してくれたのが綱勝の正室であった亡き媛姫(はるひめ)の父、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)でした。保科正之は3代将軍徳川家光(いえみつ)の異母弟で、4代将軍家綱(いえつな)を補佐し幕閣に重きをなしていました。その結果、米沢藩は15万石を召し上げられたものの、吉良上野介の子三郎を4代藩主として、15万石での存続を許されたのです。この時三郎は2歳と言いますが、生まれてすぐに1歳と数える当時の数え方で、現代では生後わずか7ヵ月余の乳児です。上杉家には他家から養子を迎える選択肢もありましたが、血縁が優先されたものと思われます。
2 吉良上野介義央と三姫の結婚
30万石の上杉家の姫と4000石の高家旗本嫡子の結婚はいかにも不釣り合いに映りますが、綱勝と義央の官位、従四位下侍従は同格で義央はのちに従四位上左近衛権少将に任じられました。また、吉良家は清和源氏足利家の流れをくむ名門でした。
一方、初代藩主上杉景勝(かげかつ)と執政直江兼続(なおえかねつぐ)によって進められた米沢藩30万石の経営も、元和期には重臣たちが次々に死去し世代交代の時期を迎えていました。とりわけ直江兼続が元和5年(1619)に亡くなると、その配下であった与板衆(よいたしゅう)の凋落は甚だしいものでした。上杉定勝(さだかつ)が2代藩主になると、奉行の交代や亡家の再興など単なる世代交代ではない家臣団の再編成がなされました。かつて徳川家康と対峙した上杉家も徳川政権下の外様大名として、安定の道を模索した方向転換が図れたものと考えられます。
幕府高家衆である吉良家との婚姻には、吉良家の出自に加えて情報の提供、幕府や公家への取り次ぎに期待が寄せられたものと思われます。
3 事件のその後
元禄14年(1701)3月14日の刀傷事件と、翌15年(1702)12月14日の討入り事件を赤穂事件と呼んでいますが、米沢藩も終始幕府の対応に翻弄され続けました。手向かいをしなかったことを殊勝だとされた吉良上野介でしたが、やがて屋敷替えを命じられました。また、気を失いながらも検視に気丈に受け答えをして感心された吉良義周も、不行届と配流になってしまいました。息子であり父である上杉綱憲の心労ははかりしれません。世の人々が上杉家を腰ぬけ扱いしても、幕藩体制下の外様大名として家臣団を繰り出すことは謀反ともとられかねないのです。事実、刃傷事件の折も、すぐの見舞いを控えるよう指示があり、翌年の討入りの際も米沢藩が討手を差し向けないよう、上杉家の親族である高家畠山下総守義寧(こうけはたけやましもうさのかみよしやす)が上杉邸に遣わされました。
討入りの際、綱憲はすでに病床にありましたが、2年後の宝永元年(1704)6月2日、江戸屋敷桜田邸にて波乱の生涯を閉じました。42歳でした。2ヶ月後の8月8日、吉良上野介義央夫人で綱憲の母である三姫が、米沢藩の下屋敷、白金邸で亡くなりました。三姫は吉良家や上杉家の墓所ではなく、母生善院の両親が眠る東北寺(東京都渋谷区)に葬られました。翌宝永2年(1705)には46歳の綱憲夫人栄姫が、実家である和歌山藩青山邸で亡くなりました。墓所は紀州徳川家の江戸の菩提寺、池上本門寺です。さらに宝永3年(1706)1月20日、深手を負って、信州高島藩に配流となっていた吉良義周が高島城内にて死去しました。21歳の若さでした。そして、同年8月17日にはすべてを見届けるかのように、上杉綱勝・三姫の生母である生善院が92歳で亡くなりました。不幸の連鎖が上杉家を襲ったのです。
角屋(すみや)由美子(ゆみこ)(米沢市上杉博物館上杉文化研究室室長)
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