■高野山の覚海上人
平成7年、長野のバス停の横に「覚海大徳生誕之地」と刻んだ石柱と顕彰碑が建てられました。その横にはコウヤマキが植えられています。
覚海大徳は、覚海という名前の徳の高い僧侶のことです。康治元年(1142年)、長野の心行寺の南側にある覚海屋敷跡で生まれたと伝わります。
京都の醍醐寺座主を務める定海のもとで出家し、後に、池山の与光寺に入りました。池山にある覚海上人を祭る覚海堂の場所は、与光寺の跡とされています。
さらに、覚海上人は高野山で寛秀に師事して灌頂を受け、華王院を開きました。華王院は、増福院という寺院に受け継がれており、門前には「覚海大徳翔天之旧跡」と刻んだ石碑が建っています。
覚海上人は、建保5年(1217年)、高野山検校に就任しました。仏法を護持するために天狗になり、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説があります。貞治2年(1223年)、82歳で亡くなりました。高野山霊宝館の近くには、覚海上人を祭るお堂があります。谷崎潤一郎は『覚海上人天狗になる事』という短編をまとめました。
建屋・三谷地域で覚海上人は、地元出身の高僧として慕われています。覚海堂には、覚海大徳八百年遠忌の角塔婆が建てられています。
(教育委員会歴史文化財課)
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