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【特集】「あのとき」-宿南 台風23号から20年-(1)

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兵庫県養父市

平成16年10月20日。
誕生したばかりの養父市を台風23号が襲い、市内各地で暴風雨による道路の崩落や倒木などの被害が発生。ライフラインも大きな打撃を受け、最大4290世帯が停電し、最大1808世帯が断水しました。
特に、八鹿町宿南では、三谷川を流れる水が水位の高まった円山川に流れず、逆流してきた水は地区内に押し寄せ、165戸が床上浸水という甚大な被害が生じました。
あれから20年が経ちました。
「あのとき」のこと、みなさんは、覚えていますか。

■1.記録
《主な経過》
▽10月20日
午前11時 大雨・洪水警報が養父市に発令される
午後 台風23号、紀伊半島に上陸
夕方 但馬地方に最接近
午後6時15分 八鹿町下網場・京口・天子・扇町・伊佐・つるみ・伊佐市営団地に避難勧告を発令
午後7時22分 八鹿町宿南地区に避難勧告を決定するも浸水、停電により伝達不可能

▽10月21日
午前1時ごろ 八鹿町幸陽区内で大規模な地すべりが発生。建設会社の倉庫、宿舎、重機、資材などが埋まる
午前9時 宿南ふれあい倶楽部に現地対策本部を設置。水害廃棄物の撤去、道路清掃、炊き出しなど復旧作業支援、生活支援を実施

▽10月22日
午後7時 養父市に災害救助法が適用される

◇雨量(20日正午~21日午前0時)
八鹿町八鹿208ミリ、藪崎199ミリ、大屋町明延164ミリ、奈良尾165ミリ
※『養父市防災計画』より

■2.証言
「あのとき」何が起こったのか。
当時を知る人たちに話を聞きました。

▽「ボコボコ」という音
池口 壽彦さん(川西)
「伊勢湾台風、第二室戸台風などを経験していたので、あの日は異常な降り方に早い段階から危機感を覚えていました。
午後2時ごろ、雨が激しくなり土のうを積みましたが、午後4時ごろには三谷川が氾濫し、床下に水が。しばらくすると、一気に水が引き始めました。それは、円山川と三谷川の合流地点の手前で土手が決壊し、宿南の東側に水が流れていったからだったんですね。
しかし、2時間ほどするとボコボコという音が。何の音だろうと思ったら、畳が浮き始めていました。三谷川が氾濫しただけでなく、地域全体が水でいっぱいになっていました。
停電を想定し、仏壇のろうそくを持って、娘と2階に避難しました。円山川が決壊し、翌朝には水が引きました。
夜が明けて家の外に出ると、惨憺(さんたん)たる状況。なんということだと思いました。川西区では、13戸が床上浸水の被害に。当時区長を務めていたので、集まって相談し、手分けをして水路の掃除や炊き出しなどを行いました。
床が乾くのを待って床の張り替えや家具の入れ替えをして、年明けには元の生活に戻ったと感じました。1階に置いていたアルバムの写真を失ったことが残念でしたね。
あの台風をきっかけに、いざというときに動けない人がいればいち早く動けるよう、地区の誰がどんな生活をしているのかがわかるよう名簿を作り把握しておくようになりました。
今でも台風シーズンになると危機感が。『起こるかもしれない』ではなく、『必ず起こる』と思い、備えることが大切だと思います」

▽隣の家が浸かっていく
坂野 よし子さん(門前)
「あの日は外出していましたが、非常に激しい雨で危ないと思い、帰宅しました。
普段着ている衣類などを2階に持って上がるうちに1階が浸水。2階に避難し、窓から外の様子を夫と見ていましたが、隣の家が少しずつ浸かっていくのが怖かったです。隣の家には老夫婦がおられて、どうしているのか心配でしたが、2階に避難されていて安心しました。
水が引いた後は泥だらけで、家の中の片づけが一番大変でした。家の中がドロドロで畳を敷くことができませんでしたが、親戚が届けてくれた畳を1階のひと部屋だけに敷いて生活しました。洋服だんすに入れていた大切な服は、泥水で濡れたのは裾だけでしたが、洗っても着られないので、処分せざるを得ませんでした。
近くのお寺の炊事場を使い、浸水被害のなかった家の人たちが食事を提供してくれましたし、家の前にあったビンや缶などの漂着ごみは、ボランティアが片付けてくれました。すごく助かりましたね。
他の地域で災害が発生すると、少しでも募金しようという思いはいつも持っています。自分が助けてもらったので、誰かの助けになれば」

▽裂いたカーテン命綱に
西田 雄一さん(門前)
西田 みき子さん(門前)
雄一さん「あの日は、両親、おじ、妻、娘夫婦、6カ月の孫が家にいました。大屋町内で市議会議員選挙の選挙運動をしていると、激しい雨が降り始め、帰ってくるよう連絡がありました。帰り際、円山川を見ましたが、まだ大丈夫と感じましたね。帰宅後、消防団の活動服に着替えて、水位が上がっていく三谷川で土のうを積みました」
みき子さん「家では、高い場所に物を移動させていましたが、水位はどんどん高くなりました」
雄一さん「帰宅すると、1階の畳が浮き始めていて、全員で2階に避難しました。娘夫婦が発案し、カーテンを裂いて作った命綱で家族全員を結びました。孫は、近くの飲食店から借りていた炊飯釜に浮き輪をつけてその中に。『最悪の場合は、この子だけでも助かるように』という思いでしたね。自分たちの人生も、もう終わりだと思いました。
1階からは『ガターン』『ガシャーン』という音が。水で浮いた家具が倒れる音だったんだと思います。水は、階段のあと1段というところまで来ていました。
水位が上がるのは早かったですが、引くのも早かった。円山川の堤防が決壊したためということは、後から知りました。
みき子さん「この家に来てから何度も浸水被害に遭っていますが、いちばんひどい経験でした。2階まで水が来たら助からない、と覚悟しました」
雄一さん「近所の人から、2階の柱に自分の体をくくりつけ、位牌を抱いて覚悟したという話も聞いています。あれ以上水が増えていたら、どうなっていたかわからない。
水に浸かった畳は、とても重い。普段なら1人で運べる畳も、大人数人がかりで運ばなければならなかったほどです。家では炊事ができず、同じ区で浸水被害のなかった家の人たちが、カレーやけんちん汁など温かい食事を毎日用意してくれました。涙が出そうなくらいありがたかったですね。
自分の命は、まず自分で守る『自助』。その次に地域のつながり、助け合いの『共助』、その次が『公助』であると感じました」
みき子さん「過去の水害では、2階にいる人たちに船でおにぎりをとどけたことも。水が来たら逃げられないことを知っているので、自宅の2階ではなく、避難所に行けるよう寝袋などを用意しています」
雄一さん「いつ、どこで、何が起こるかは、全く予測できません。事前の備えや経験を語り継いでいくことは大切だと思いますが、伝えるということは、なかなか難しい。思いの伝え方について、これからも考えていきたいですね」

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