余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。
~その233~『余市町社会経済調査』
あけましておめでとうございます。
今から47年前、昭和52(1977)年3月のこと、北海道立総合経済研究所(当時)に勤務する研究職員の有志によって創設された地域問題研究会によって余市町編、『余市町の社会・経済構造分析』が刊行されました。
同会が余市町の調査を開始したのは昭和52年で、翌53年には町内の業界団体代表約50名が集まって「余市町の明日を考えるこん談会」が開催されて大きな反響がありました。調査は5年以上にわたり、町民2,000人以上が協力して行われ、最後のまとめとなる報告書が作られました。
同書によると、「明治・大正期の日本資本主義過程において余市町の人々は極めてダイナミックな対応をする力量と蓄積を持っていた」と指摘しています。ニシンを中心とした漁業による蓄積が余市銀行や北海信用金庫(当時)を創立させ、リンゴの産地形成とロシアへの輸出が行われたことがその例として挙げられています。
戦後、中国大陸や樺太(サハリン)などからたくさんの引揚者が北海道へ移住しましたが、彼らには田畑の開墾による食料不足の解決、また炭鉱や鉱山の資源開発の担い手としての期待が寄せられました。
余市町でも、引揚者による人口増加が見られました。終戦前後の年には疎開から戻ってきた人や復役軍人などで4,965人、引揚者は昭和24年までで2,057人を数え、「急増した労働力人口の中から1,000名にのぼる行商人を生みだし、戦後の食糧難に対応した余市町農水産物供給のパイプ役」となりました。「余市に行けば、喰える」と言われていたそうです。
しかし、昭和30年代には管内各地で戦後開拓者の集落の人口が減りはじめました。余市町に流入した人口は建設、製造、サービス業部門を担います。
その頃の広報を見てみます。「余市商業の現況(その1)」(広報よいち昭和38年8月号)では、町内の店舗数が499店、昭和27年を100とした販売総額の伸び率は同33年で228%、同37年で399%と驚異的な伸びを見せています。
翌月の広報の「余市商業の現況(その2)」では、「商店経営上留意すべき点」として、店舗は「高層化して奥行を長くすること、玄関は(引戸ではなく)ドア式が望ましいこと、色彩に季節感を持たせること、照明と陳列に常に創意工夫が必要なことが留意すべき点として挙げられています。
昭和30年代後半は、農業部門での新たな挑戦も見られました。昭和39年1月の広報では、海野新町長さんや農協、漁協の組合長さんらが集まった新春座談会の様子が載っています。
農協の三宅組合長さん(当時)から「最近の嗜好からみて果物も品質、味ともによいものが喜ばれるようになっていますので、果物を始め西洋野菜を札幌百万都市に供給できるよう指導しています」とあり、実際にその年6月の新聞紙上には「余市で一万ヘクタールを初試作好評のプリンスメロン」の見出しが躍りました。
記事には「本州で一昨年から糖度の高いプリンスメロンが栽培されて好評を博しているところから、そ菜のメッカ余市町栄町にもことし一部の農家で一万ヘクタールがはじめて試作されている」
「道内ではまだ栽培されていないものだけに試験的に神奈川県の坂田種苗会社からタネを買って来たもので栄町の希望農家に配分し今年試作した。…中略…販売価格の二倍には売れるので七月末にはじめて出荷されるこのメロンに余市地方のそ菜農家はその成果を注目している」とあります。
地域の次の関心は町内観光面の充実や、積丹半島の道路敷設と図書館の建設でした。前掲書では図書館建設の目的として、趣味としての読書のためだけでなく、地域の課題解決のための様々な資料や情報を見ることのできる図書館が提案されています。
昭和の時代にも、余市町の人々は極めてダイナミックな対応をする力量と蓄積を持っていたようです。
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