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余市町でおこったこんな話

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北海道余市町

余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。

~その234~『人口』

少子高齢化が進んでいると報道されています。令和32(2050)年の北海道の人口は、令和2年の約522万人から27%ほど減少して382万人ほどとなる予想が発表されました(国立社会保障・人口問題研究所公表の将来推計人口)。
余市町の人口は令和32年に9,569人になると同調査では予想しています。
江戸時代の終わり頃、安政年間(1854~1859)のヨイチ場所の人口は1,994人でした(アイヌ民族と和人の永住と出稼ぎをあわせた人口)。明治時代になると内陸部への入植者によって人口はだんだんと増えます。
明治33(1900)年、北海道一級町村制が施行されて道内には15の町村が生まれ、その中に余市町もありました。この年の余市町の人口は1万2,596人。人口は明治の後半から大正にかけて増えて、大正9(1920)年に1万6,809人となり、20年間で4,000人ほどの増加が見られました。
余市町で最も人口が多かったのは、昭和35(1960)年で、2万8,659人(男性1万4,037人、女性1万4,622人)、6,054世帯でした。この年に行われた国勢調査結果で示された産業別人口(15歳以上、男女別)は次の通りで、農業に従事する人が最も多いという結果になりました。
(1)農業3,260人(男1,488人、女1,772人)
(2)卸小売業2,371人(男1,378人、女993人)
(3)サービス業1,471人(男875人、女596人)
(4)建設業941人(男856人、女85人)
(5)漁業水産養殖837人(男673人、女164人)
(6)鉱業803人(男729人、女74人)
(7)製造業707人(男516人、女191人)
(8)運輸通信業542人(男462人、女80人)
(9)公務員263人(男227人、女36人)
(10)林業及び狩猟業167人(男154人、女13人)
人口は昭和55年にいったん増加したもののその後は減少に転じました。昭和時代の減少の原因は昭和38年の余市鉱山(湯内抗)の閉山や、平成2年の大規模製造業者の町外工場への生産ライン移転が挙げられています。
増加の原因は、昭和40年の北星学園余市高等学校の開校、昭和47年の海上自衛隊余市防備隊の開隊、平成3年の北海道余市養護学校の開校、平成4年の大型店舗の出店による雇用の増加がありました(『余市町人口ビジョン(令和2年改訂版)』)。
昭和30年代中頃のまちの賑わいを広報からひろってみます。
昭和36年8月の広報よいちの8月臨時号の表紙には「特集建設の歩み」の見出しが見えます。記事では「国、道、町費により道路や学校、港湾などの改修、建築工事もいまがたけなわとなってまいりました。あの橋、この道路も、そして学校も私達の生活や産業になくてはならない大切な公共施設で町の発展のために必要なものばかりです」とあります。
同号の「都市化した黒川町銀座街」では、車道と歩道の舗装工事が完了したこと、水銀灯による「スマート」な街路灯が41基設置されたことが紹介されています。
8月27日には総合グランドを会場にして町民大運動会が行われました。100m競争は小学生、一般、女子学生など世代ごとに分かれ、うさぎ跳びは45歳以上50歳まで、暗算競争は小学生、猫袋競争(?)は中学生、ビン釣り競技は区会長または副区会長による競技でした。
総合優勝は豊丘鉱山区会、準優勝は豊浜鉱山区会、三位は黒川第四区会でした。仮装競技は運動会とは別採点で行われ、優勝は「世界の平和を守る」の仮装をした入舟第二区会、準優勝は「仮装よされ踊り」の入舟第一区会でした。
区会対抗野球大会の地区予選が、大川、黒川、中央、西部の4ブロックに分かれて9月5日から行われることのお知らせも見えます。
町内のみなさんが参加して、盛り上がる行事が行われていました。

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