余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。
~その236~『飛行機』
ライト兄弟による世界初の有人飛行が明治36(1903)年のこと、国内では明治44年に国産民間機の初飛行が実現しました。同年はJ・C・マースさんが来日し、ここから、大正にかけて海外から飛行家が続々と来日、多くの観客を集めて飛行会が催されました。外国のパイロット達は宙返りや横転などの曲芸飛行を行い、観客は大いに盛り上がりましたが、同時にかれらの高い飛行技術は日本の航空界に大きな刺激を与えました。
大正5(1916)年3月、アメリカの飛行家アート・スミスさんが来日して全国各地を巡り、札幌にもやってきて飛行会を行いました。彼は墜落して負傷しましたが、入院した際にふれた札幌市民のやさしさを日記にのこしています。
「札幌に於ける総ての人は、道庁長官より小学校生徒まで余に同情と好意を表した、余が病室は毎日新しい花、果物其他の贈物で一杯になった」(『日記から』アート・スミス)
町内のある方のお宅に、手札版大(およそ8×11cm)の飛行機の写真があります。この写真は大正のはじめ頃に、その方が所有する土地で飛行会が行われ、料金をとって余市町民に観覧させたものと伝わっていたので、ご家族はこの写真を大切にしていました。毎年3月の節句には、同家に伝わる古いお雛様と一緒に飾っていたそうです。
写真の裏には7月13日の日付がのこっていましたが、この飛行機が、いつ、誰によって操縦されたものか、はっきりしていなかったので、ご家族のひとりが熱心に調査され、次のような証言を得ました。
飛行機は大浜中の海岸で飛ぶ予定であったが、浜は傾斜があるので、平らなダイコン畑を滑走路に使い、そのお礼としてこの写真が贈られたこと、当時、鉄道の防風用にむしろでぐるりと囲んだところがあって、その中で、飛行機が組立てられたこと、ダイコン畑に火山灰をまいた即席の滑走路を用意したことなどです。囲いの中の飛行機を見ようと、大川尋常高等小学校(当時)の児童の見学もあり、暑い日だったのでかき氷屋が店を出してにぎわいました。飛行機は複葉機で、翼は布製、機体は木と針金でできていて、運転席の後部にプロペラがあったこともわかりました。
北海道新聞余市支局にも協力を仰ぎ、全道版の記事にしてもらったところ、その日のうちに、道内在住の方から電話が入りました。
電話の主によると、大正8年7月にこの飛行機と同じ型の飛行機「岸式つるぎ号」を井上中尉が操縦する飛行会が深川市で行われ、その写真が深川市にのこっているので、余市町の写真もこの時期のものではないかということでした。
また、同年8月30日に狩太町(現ニセコ町)でも、井上中尉操縦によるつるぎ号(剣号)による飛行会が行われた記録がのこっています。真狩村、狩太町、倶知安町と羊蹄山麓で飛行会が行われた様子はつぎのようでした。
「井上中尉操縦、剣号飛行延期の処、本日の天候に挙行合図の煙火会場に響く。依て曽我農場内の会場に急ぐ。…中略…此の時真狩を発したる飛行機市街の上空に来り、市街を一巡して会場に着陸したるを見る。観衆の拍手鳴りもやまず成功を評す。操縦者たる井上中尉は有志に歓迎せられ休息中観衆二千余、めいめい機体の周囲に実察に忙わし、時代おくれの余等実見すること実に初めて一驚に値いす」とあり、この後、剣号は、羊蹄山山頂の100m上空を越えて倶知安会場に向かいました。
剣号の飛行会とは別に、大正14年、阿部操縦士の操る複葉機による飛行会が黒川埋立地(現黒川町、ニッカウヰスキー付近か)を会場にして催されました。当時町内にあった料亭一福さんの芸者だった福栄さんがその飛行機に同乗しました。
飛行機は電線にふれて墜落し、観衆を驚かせましたが、軽傷で済んで大事には至らなかったようです。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>