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余市町でおこったこんな話

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北海道余市町

余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。

~その237~『旅館』

町内で古くから旅館があったのは、余市川河口付近の大川町、余市駅前、浜中町でした。大川町は余市川河口から回航していた船便があったこと、余市駅前は明治35(1902)年に余市駅が開業したことが理由のようです。
明治時代の後半、余市郡内にあった旅人宿は、大川町ではカネマタ印の服部音吉さん、カクダイ印の本間大造さん、マルニ印の下川ナミさん、近江屋旅館の平田吉次郎さん、浜中町ではヤマト印の山田初太郎さん(汽船回漕店と肥料売買兼ねる)、沢町ではヤマキ印の柏谷弓太郎さん(仲買商兼ねる)がありました。
おとなり仁木村では、旅人宿と運送業の輪島屋を経営していた工藤ツルさん、塩谷村では旅人宿と水産業を経営していたマルチョウ印の山吹藤太郎さんがいました(『後志国要覧』)。
旅館(旅人宿)のほかに旅行者が宿泊できた施設には、木賃宿、駅逓所がありました。
木賃宿はお客の持参した食料を煮炊きする薪代(木銭、木賃)だけで宿泊できる宿、駅逓所は人馬等を備えて、宿泊や物資の運搬のために設けられたもので、赤井川村都地区にある道の駅は、もともと駅逓所があった場所です。
昭和の初めころ、余市郡内に旅人宿は14軒あって、1年間の宿泊者(昭和7年前後)は道内の人8,924名、道外の人5,049名、木賃宿は3軒、宿泊者は道内の人2,021名、道外の人14名でした(『余市郡郷土誌』)。
カネマタ印服部旅館さんは大川町にあった旅館で、駅前に待合所も経営していました。明治時代の記録を見ると、「四通発達の好地に居を構へ、余市有数の旅館を経営しつつあるは服部乙吉君(音吉か)の怪腕による…中略…旅客を扱うかたわら商店部をも営んで林檎問屋を開設し醤油卸売りをなす。」とあります。
待合所の項には「余市の地をふむ者はカネマタ待合所を知らざる者なし、本道名物の林檎は其特産の商品…中略…停車場内に捌いて遠旅の行客を慰む」とあり、旅館業を営む傍ら、醤油の卸業を商い、駅売りのリンゴ販売も繁盛していました。
カクダイ印本間旅館さんは、日露戦争後に開業しました。「当港唯一の好旅館はそれカクダイなるや、待遇の懇切なる千里の旅にあって尚我家にあると異ざる特色は本間旅館の専有なり、主人は義侠をもって地方に知られたる人…中略…旅館のかたわら薪炭を古平美国に送り西に東によく勉めよく商う」とあります。こちらも旅館業の傍ら、薪や石炭を古平、美国方面に商っていました。
近江屋旅館さんは「余市停車場前の好位置にあり、店主平田吉次郎氏は…中略…明治四十一年三月余市町に来住し独起現業を開く
創業日浅きも客室の清潔と婢僕の懇切を知られこの地往復の行客競ふて同館に足を向ける」とあり、駅前の好立地で営業されていたようです。
明治18年の夏、東京大相撲の大関梅ケ谷(後に横綱)のご一行が古平巡業で訪れた際は大川町にあった尾張屋に滞在しました。この巡業に参加していた天拝山という力士が、不幸にも病気で亡くなってしまいます。
その治療や葬儀の一切、余市での供養を支えたのが、尾張屋を営業していた尾張與三郎さんでした。尾張屋は路銀のない人をただ同然で泊め、行き倒れの人を助けた宿だったそうです。

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